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行列が出来るお寺「鈴虫寺」

京都市右京区にある華厳寺(鈴虫寺)時には3時間待ちにもなったりするらしい、なので皆さんが祇園祭に気を取られているスキを突いて行ってみたらドンピシャで空いてた、良かった~

イメージでは、リ~ンリ~ンという染めやかなスズムシの音(ね)を聞きながらお寺の庭園をのんびり堪能出来るのかな~と思いきや、全く違います(汗)

4千匹ものススムシが一斉に鳴きまくる飼育箱が並ぶ大部屋で
吉本新喜劇育ちのジム・キャリーばりの住職さんが軽快にお説法漫談をしてくださりますw(おそらく住職の息子さんの副住職さん)

始まるやいなや拝観者さんの戸惑いのザワザワが・・・

まぁ関西では変わったクセのある住職さんやオッサンは珍しくはないので私は平気なのでそれはいいとして、お説法(法話)と言えばお経の中から一説を読み解いたお話いわゆる「ええ話」

今回は「足るを知り感謝し、悪口は止めて時には褒めてあげましょうね」というようなお話で、どちらかといえば聞いた事があるような話かもしれませんが、面白いなと思ったのは

鈴虫寺の帰り、お手入れされていい感じの生垣があったので草花を撮影していると

年配の女性が話しかけてきて

女性「写真ですか、良かったですか?」

私「ええ、いい感じだったので撮らせてもらいました、こちらの方ですか?」

女性「そうなんです、写真撮ってもらったり、そんなん言われた事なかったから、嬉しくて話しかけてしまいました」と半ば涙ぐみながら

いやいやいや、そんな大そうな(汗)
褒めるつもりはなかったのですが結果的にはお説法の10分後に実現w

と言いたいところなのですが、私はこの考え方に半分は賛成で半分は反対
と言いますのもちょっと前に「褒め伸ばし」が流行ってやたらめったら褒めまくった結果

「褒められそうな事しかしない、ダメ出しされたら逃げる」
「儲かりそうな事しかしない、優越感に浸れる事しかしない」
「自分の株が上がるメリットがある人としか関わらない」

で「褒めを過多に求める人」が増え「褒められない人は遠慮して影を潜める」というような人を量産しちゃった、という事があったから(いわゆるユトリ)

まぁ悪い事じゃないんですが同じような性格の薄い人を量産してもな~と
結果的には「褒めるに値するか否か、それ以外は無関心」の三択しかしない大人になる

脳がそういう尺度で物を見図るプログラムになっちゃうので
「褒めるとか褒められたい」という概念を心の根本の尺度に置かない方が良いと思う

「たまに褒められたらちょっと嬉しいかな」くらいの事だと留め置いた方がいいと思う派

(褒められたい気持ちは心のどこかにあるかな程度にしておいた方が根本を中道にしておける)(ビジネス社会においてはそんな流ちょうな事は言ってられないのですけどね)

なのですが、私たちの知らないところで経済格差ならぬ「褒められ格差」があるんだな~と。

かといって「褒められ飢えてるだろうから褒めて調子に乗せちゃえ」というような悪用も良くないと思う

でもやっぱ「褒められる」ってハードル高いんですよね、何かに長けている人はいいですが特に何もない人からするとただただハードルが高い、なのに求めるが故に飢える。ってなるからそういう概念を心の中の尺度として重きを置く事を主流にすると格差が広がるので良くはないと思うのでが・・・まぁはびこってしまった物はしょうがない

日夜イイネの数が飛び交う昨今、その裏側、ネットが行き届いていない年代のご家庭は

イイネも悪イネも無い、誰の目にも止まる事のない孤独な領域

褒められる人にはどんどんスポットがあたり、そうでない人々は「無関心の向こう側」へと忘れ去られていく、という格差が広がる

っていう話になると「何か趣味を持たせて交流させよう」という話になりますが、趣味の世界は頭カチンコチンの序列とかマウント思想があって楽しめない、「じゃあ若い人が構ってあげようよ」という話になりますが実際は考え方に癖があり他人の素人の手におえるようなものでもなく、また関わってもメリットを感じないと関わらないという人を量産しちゃったので余計に誰も寄り付かない領域が「反作用的」に発生しているようにも見えます。

(※おそらく趣味レベルで畑とか出来て適度に両隣の畑の方と付かず離れずの距離で知り合い以上友達未満くらいの交流が出来れば丁度いいんだと思うのですが、そんな土地はないですもんね)

やっぱ褒めるとかどうとか大そうな話ではなく「へ~」とか「時々見てるよ」「時々どうしてるかな?って気にかけてるよ」程度、それがちょこっと伝われば「それだけでいい世界」だと思うんですよね、だから半分は賛成で半分は反対

そう思うと「イイネ」でも「悪イネ」でも関心を持ってもらえてるだけありがたいなとも思う。

そう考えるとインターネットを毛嫌いする年代の方も多いですがセーフティーネットの役割もあるということを広めるのもいいかもしれないと思う。

で仏教の話と何が関係するかというと
学校では「聖徳太子(厩戸皇子)が国を治めるために本格的に仏教を導入した」という風に習いました(私は)当時は「聖徳太子って名前、ゴロがいいな~」くらいにしか思いませんでしたが、要は律令(法律やルール)で統制しても統制しきれない、そりゃそうですよね赤の他人の「命令や取り決め」に従う筋合いなんてないですし、まだ貨幣が一般流通していない1400年前、もちろん防犯カメラとか指紋で犯人を特定出来るような時代でもないので結局は「やりたい放題状態」

直ぐもめる、直ぐだます、直ぐ裏切る、直ぐたぶらかす、直ぐ怒る、直ぐ盗む、直ぐ殴る、直ぐ潰す、直ぐ逃げる、直ぐさらう、直ぐ犯す、直ぐ〇す

こりゃ日ごろの人柄からどうにかせにゃいかんな~と思いますわな。

人口が増えると接触が増え直ぐにもめる、数家族の小さな村ではもめごとは少ない、しかしそれでは近親交配が起きてしまう(実はこれに何千年も困らされてきた)

つまり当時は人口を増やさなければならない状況があった

なのでどうにか人口を増やしながら個々の日ごろの人柄からどうにかして諍いを減らしたい。隣国はシルクロード貿易時代を経て三国志の時代、その政治方法が半島経由で伝わってきます。

それらを参考に人口増加に対する統治対策として導入した一つが仏教だそう

それを広める為に作られたのがお寺

現在では「お葬式とお墓の管理」というようなイメージですが
当時は多くが国営でお葬式関係だけでなく戸籍の管理や市役所公民館的な役割を兼ねていて、お堂で会議をしたり習い事をしたりイベントをしたりして
それで人が集まった時にお説法をして広めたりしてたそう

落語や講談講釈などの話芸はその時の「客寄せ役」が発展したものだとか

なので「お寺や神社でロックコンサートなんて不謹慎だ!」ではなく
実は1400年前からそういう使い方をする場所だったんですよね
(当時「雅楽」は渡来の超ハイカラなエンターテイメントだった、今でいうマイケルジャクソン来日級)
なので今でもイベントをしたいと言えばお堂を借りれるところもあります。
(騒音問題がなければ)

あとお寺とか神社がお金儲けお金儲けと言い過ぎると
「それはちょっと違うんじゃない?」と思いますが
実際は京都の著名なお寺や神社で裏で裏話を聞くと基本的にはお金儲けの話ばかりですwまぁしょうがないですよね人間だもの、ただその経済格差はエグイ

こうして見ると単に仏教が素晴らしいから取り入れたのではないという事が見えてきます。(悪く言うと日本人をコントロールするために導入したとも取れますが致し方なし)

当たり前ですが本場のインドに行けばお釈迦様(ブッダさん)はインド人のお顔をしています日本の仏像は大陸顔。本場といってもインドでは仏教はマイナーで人口の約0.7%しかいない、メインはヒンドゥー教(ヒンドゥー教のカースト制度(階級制度)が嫌な人が仏教に変えるパターンが多いらしい)

お釈迦様はお経を歌みたいにするのを禁止していたらしい。
木魚でリズムを取るのは日本だけ(それどころかええ声で歌うかのよう)
シャーキヤ族の王子ガウタマ・シッダールタ、略してお釈迦さん、略しすぎw
(個人的にはそういう日本流にしちゃうところが好きですけどね)

というようにラーメンやカレーやナポリタンの様に日本人に合う様に随分とカスタムされています。

失礼ながら見方を変えれば本場の方の成り立ちからしても他の宗教より考え方が「階級制度から逃げてきた階級が低い貧しい人たち用」に偏ってカスタムされてるようにも見えます。

そう考えると昔から随分と暮らしも変わったので、更なるカスタムの時が来ているんではないかなと思った、そういうお話。(階級制度を廃止したのに今度は生々しい「格差階級」が深刻になってきたからね、というお話)

(まぁホントに知りたいところはブッダさんが王位を捨てた後どうやって稼いでいたかとか、人気寺院になる秘訣とか観光バブルで稼いだお金をどう運用しているかの財テクの方ですけどねw)

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