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死について考える【99日目】

本当に疲れている時はただひたすらに休みたいと思うものだ。

生きる上で、また死ぬまでには成長が必要という話は前にした。それだけでなく、他人のために生きるであったり、コツコツと毎日何かに取り組む、であったり、そういった活動にエネルギーが必要なことに対して、本当に疲れている時はやりたくないと思ってしまう。そもそももう体力が足りなくてやれない、が正しいのかもしれない。言い訳という考えもあるが、その言い訳だと思う人は本当に疲れたことがあるのかと問いたい。

例えば2日徹夜でもしてみればいい。その時に自分のためにしか何もできなくなる。何か新しいことを始めようだとか、毎日続けていた多少エネルギーの消費することはできないであろう。それだけの余力がないのだ。自分のためだけにしか動けない、動けなくなる。

常日頃から自分を捨てることはできるかもしれないが、そういった極限の状態になった時は、やはり自分が愛くるしいもので、自分のことしかできなくなる。ちょっとしたことでイライラしてしまう人は、もしかしたら、自分に余裕のないのかもしれない。毎日でもだ。毎日なにかに追われ、精神的に消費している。そういう生活をしている場合もある。そういう性格の場合もある。そういう方向へ自分で毎回持っていってしまっている可能性もある。その分、改善もできるだろう、そういったことは。いっぱいいっぱいにならないように少しずつ改良を加え、余裕をわざと作っていくのだ。そうすることで、多少は回避できるようになる。

人それぞれ極限の状態は異なるし、その状態になる条件や閾値も異なる。人それぞれなのだから、疲れてるのは言い訳というのはそもそも論外なのだろう。そういうことが言えてしまう人は、他人の立場に立って物事を考えられない人だ。

極限の状態でも、自分ではなく他人のために働ける人もいる。例えば、遭難していて、食料が尽きた時、他人へ譲るのか、自分が分け前を取ってしまうのか。本当の意味での極限の状態では自分が生き残ろうとするはずなところ、他人のために働くひともいる。映画の世界なお話だが、実際にあり得る話だ。なぜ、他人のために働けるのか。それはある意味諦めなのだろう。自分の命を捨てるのだ。自分はもうダメで、諦めて、スパッとと心のなかで決定をくだすのだ。そして、助からないであろう自分に尽くすのはもう意味がないと悟り、そこで、初めて可能性が生まれる他人へ目をつける。これが死を受け入れるということなのだろう。

他人への思いやりがある人はある意味、死を受け入れている人なのかもしれない。もちろん、ただの性格や習慣という可能性も十分に考えられるが、それまで独りよがりだった人がこう変わったら、考えが変わってきた、そういう風になってきたと捉えるのが良いだろう。それは年齢と共に考えが変わるかのように、何かをきっかけで変わるかもしれないわけで、深層心理では、死を受け入れているに近い現象は必ず起きているはずだ。

死を受け入れるかどうかでこうやって行動まで変わる可能性があることがわかった今。改めて、もう99日目なのに、改めて、死について考えたい。

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