考え方を認める思考へのストローク
(拙著の宣伝です:笑)
第一章-3 人間価値2項 考え方を認める「思考へのストローク」
あらゆる生物の中で、自分自身を騙(だま)せるのは、人間だけです。
自己欺瞞と言い換えれば悪意を含んでいるように聞こえますが、自分で自分を騙すのはプラス思考と紙一重。
たとえば肥満型の人が、自分の太鼓腹を眺めすがめつ、
「なんと醜い体形なんだ。情けない」
と自分をいじめ苦しめるよりだったら、
「まるで、布袋様のように福々しい太鼓腹だ。布袋様ってことは、無病息災まちがいなし」
と愛でるほうが、精神衛生上よろしい。
精神衛生には宜しいでしょうけど、体にとっては甚(はなは)だ宜しくありません。
無病息災どころか、すぐにダイエットを始めなければ、生活習慣病になってしまう。
その危険性を、プラス思考によって潜在意識下へ閉じ込め、自分の太鼓腹を「福々しい」と是認し、正当化してしまうわけです。
それほどまでに、人間は、ものごとを複雑に考えることが出来ます。
海苔のように何も考えずに働いている人など皆無といってよく、人間である限り、老若男女を問わず、何らかの要望や、意見、思惑、目標、信念、疑問について複雑に考えています。
その考え方は千差万別。
人は人。あなたはあなた。まずは相手の考え方を認めよう
たとえば、宝くじ3億円に当ったら?と問われて、
「老後に備えて貯金します」という人もいれば、
「買いもの三昧で豪勢に使います」という人もいれば、
「勤めを辞めて世界旅行へ出かけます」という人もいれば、
「全額を慈善団体へ寄付します」という人もいます。
こうした考え方、意向、所思、定見、思案が人間の思考であり、それは百人十色です。
あなたにとって「そうだ!そうだ」と共鳴できる意見もあるでしょうし、「アホちゃうか!」と信じられない意見もあるでしょう。
しかし、どの意見にも正誤は無いのですから、頭ごなしに否定する必要はありませんね?人は人。あなたはあなた。
■100%同じ考え方の他人は、100%いない
もしも、相手の考え方を認められないとしたら、その理由は単純。
あなたとは考え方が異なるからです。
が、よくよく考えてみて下さい。すっかり同じ考え方の人間が、世の中に何人いると思いますか?
最も近いのは親子。けれども、生きる時代も環境も異なりますし、父母それぞれの遺伝子を受け継いでいますから、親子といえども、まったく同じ考え方であるはずがありません。
赤の他人ともなれば尚更です。
総論は同じでも各論が異なったり、Aというテーマでは同じでも、Bというテーマにおいては異なる。このように、似た考えの人は大勢いても、あなたと100%同じ思考の人間などいない。思考は指紋と同じなんですよ。一人に一つ。同じものはない。
ならば、先ずは、あなたと違う考え方を否定する前に「それもアリかも知れない」と認めてみてもバチは当らんのと違います?
もちろん、邪悪な考えを認めるわけにはいきません。人間として正しく、美しく、明るく、清らかな、暖かい思考を認めましょう。それは、性格でも人柄でも構いません。
「面白い考えだ」
「思いやりがあるね」
「いい心がけ」
「その感想は素晴らしい」
「気くばりが上手」
「優しい」
どれもこれも、ありふれた言葉です。その、ありふれた、たった一言が、プラスのストロークになります。
言動で表現された思考を肯定する
人の考え方は、言葉か行動になって表現されます。ということは、どのように認めたら良いか分らなくても、相手の言動を引用するだけで認めることができます。
弱者を救いたいと言ったら、「いいことを言う」「そういうことを言うのは好きだなあ」
ゴミを拾ったら、「エライなあ」「そういうことをするとは、大したものだ」
と、意見でも、見解でも、意識でも、行動でも、振る舞いでも、動作でも構いませんので、相手が考えていることや、実行した事実を認めてあげて下さい。
思考を認めるにあたって、容姿や外見は関係ありません。職業や経歴も関係ありません。性別も年齢も関係ありません。
思考と、思考から導き出される行動は、その人の人間性そのものですから、相手の言動を認めることが、相手の人間性を認めることになります。
思考が脳そのものであることは、脳死が死と法制化されていることでも分ります。考えるから人間なんです。
哲学者パスカルも言っていますね?「人間は考える葦である」と。
第一章-4項 人間価値3 本質を突く「真価へのストローク」
人間性の真価とは、あなたが終生失うことのない本質です。
西郷隆盛のように大らかな人柄。
マザーテレサのように利他的な活動。
平賀源内のように想天外な着想。
どれも先天的で、終生失われることはありませんでした。
絵が上手。これも真価です。絵が上手な人へ向かって「上手ですね」と認めれば、よほどの天邪鬼でもない限り、悪い気はしませんよね?
理屈抜きで、
映画を観るのが好き。
数学が好き。
歴史が好き。
切手の蒐集が好き。
クルマの運転が好き。
人と話すのが好き。
相談に応じるのが好き。
食べるのが早い。足が速い。
弁舌さわやか。
演奏が上手。
将棋や囲碁などのゲームに強い
誰でも、無性に好きだったり、得意だったりするものが、一つくらい、ありますよね。
こうした、終生失われることのない絶対本質が、人間の真の価値、つまり真価です。たとえば、作り話という空想が巧みなら、小説家になれる。
真価は、時に残酷な方向へ至ることもあります。暴君は暴力でのみ真価を発揮しますし、性犯罪者は犯罪によってのみ真価を発揮します。
そうした致し方のない方向で花開く真価もありますが、これらは社会から悪として裁かれる類いにつき、ここでは除外します。
先天的な真価
真価には、芸術やスポーツのように先天的な才に因るものと、勉学や料理のように後天的に伸びる真価があります。
いくら努力したって、すべてのプロ野球選手が球史に名を残せないように、球史に名を残す名選手は、先天的な才があります。
その逆に、天賦の才に恵まれているからといって、何の努力もしない人が、いきなり大成するわけはない。
イチロー選手にしたって松井選手にしたって、天賦の才に恵まれていながら尚、人の何倍も練習するといいます。
人の何倍も野球が好きだから、人の何倍も練習できるのかもしれません。
ある小学生は野球が大好きで、野球部に所属していました。
が、万年補欠で、人の二倍も練習しているのに、レギュラーになれなかった。よく「万年補欠」とからかわれていました。
それでも好きな野球を辞めずに、万年補欠のまま、小中学校を終えました。彼は、小中学校まで、私の同級生でした。
高校進学を機に彼は、
「野球が好きなことと、野球のプレイヤーになることは違う。好きなだけなら、野球観戦でも、野球ファンでも良い」
と、長所である持久力を活かし、陸上部のマラソンへ移りました。
すると、瞬(またた)く間に好成績を挙げ、地方紙のスポーツ欄に載るほどまでの選手になりました。
彼は、球技には向いていませんでしたが、陸上に向いていた。
野球がダメだからといって、その人の全ての真価が否定されるものではない。ということは、野球の上手下手で能力を判断するのは間違っていることになりますね?
野球がダメなら、他の道へ進む方法もあります。
彼の場合は、持久力という真価が認められることによって、進むべき道で成功できた例といえましょう。
後天的な真価
先天性がなくとも、学力試験は、後天的な努力によって向上します。いくらIQが高くても、勉強しないことには始まらない。
よく「自分は、勉強すりゃ100点を取れる人間だ」との自己欺瞞を耳にすることがありますが、「それじゃあ、勉強してみい?」って話でして、やればできるなら、やればいい。それができない。
勉強するかしないかは、天賦の才ではなく、後天的な努力によるものです。どんなに記憶力が良くたって、勉強する自由をコントロールできないから、100点を取れないだけです。
その自由をコントロールする力や、信用を築き上げるといった、目に見えない絶対本質までが真価に含まれます。
誠意や克己ですね。
努力家と呼ばれる人は克己心(こっきしん。己に打ち勝つ心)が強い。
先天的な真価をどうのように伸ばすのも、後天的な自由です。
後天的な真価を見つけるのも、自由です。それを自分で見つける人もいますし、いろいろな人に出会うことで見つける人もいます。
もし、あなたが、後天的な真価に気づいていないとしたら、いろいろな味方に出会って、雑談することです。
味方の声に、注意深く、耳を傾けてみて下さい。何気ない会話の中に、あなたの真価を見つけることでしょう。
無条件に認める真価
真価を認めるには、無条件で認める方法と、条件つきで認める方法の2通りがあります。
無条件で認める方法とは、出来ようが出来まいが、真価そのものを認めること。これを、アンコンディショナル(unconditional:無条件の)ストロークといいます。
絵が上手な人がいたら、絵画展に入賞しようと、しまいと、「上手ですね」と褒める。
子供が0点をとってきても、「0点でも良いじゃないか。試験を受けたから、0点であることが分ったんだ。次は1点でも多く取ろう」と励ます。
大きな商談を契約できない営業マンがいても、一生懸命にやっているなら、「よく頑張っているな」と声をかける。
歌がうまかったら、「きれいな歌声だね。もっと聴かせて」と褒める。
字や書が美しいかったら、「美しい字だなあ」と褒める。
足が速かったら、「足が速いぞ。それが持ち味かも」と褒める。
もちろん、「どうして、結果の出ない者を、認められようか?」という反論もあるでしょう。
いつまで経っても結果が出ないのに「それでもいい」と認めてばかりいては、現状に甘んじるか、図に乗るか、逆に重荷になってしまう危険性もある。
しかし、結果が出ないのは、結果を出せない本人だけの問題でしょうか?結果の出ないことをやらせ続けている立場(親・教師・上司・指導者など)にも問題があるのと違います?
結果を出せないのは、本人だけの責任ではなく、監督する立場の責任でもあります。
それを棚に上げて「結果の出ないものは認められない」と糾弾するのは、指導者自らの無能を暴露しているようなもの。
糾弾は、指導者にとって、諸刃の剣なんですよ。それでも人を責めますか?
あなたの真価を見つける方法
できないのなら、できるように導くのが当たり前。と思ったら大間違いなんですよ?「できない人は永遠にできない」ということだってあるんです。
その場合は、別の道に真価を求め、探し出すのも指導者の務め。
著名人を例にとると、凶悪な暴走族を率いて警察の厄介になり、親から「お前を殺してワシも死ぬ」と包丁を突きつけられた悪ガキが、得意の格闘技を活かし、大相撲へ進み、大関まで昇進した人(千代大海)もいます。
プロ野球の投手としてはヒーローになれなかったけれど、プロレスでは一時代を築いた人(ジャイアント馬場)もいます。
ゴルフのジャンボ尾崎も、最初はプロ野球の投手でした。ホームランバッターの王選手も、投手からの転向でした。
営業職では結果を出せなかったけれど、デザイナーへ転向したとたん、営業しなくても仕事が舞い込むようになった若者だっています。
当社の社員でした。
今の道がダメだからといって、人間性の全てが否定されるものではありません。他に向いている道が必ずあります。
それは、絶対本質である真値を見つけることで開ける道であり、本人と指導者が一緒になって探す道です。
自分の真価が分らない人もおりましょう。そのときは、目を閉じて、子供の頃を思い出してみて下さい。
何度も何度も、時間をかけて、じっくり思い出すと宜しい。
真価は、子供のころに片鱗を見せているはずです。好きで打ち込んでいたことや、夢想していたことがあったはず。その瞬間を思い出したとき、真価の糸口が見つかります。
もう一つは、親の軌跡を観察すること。親が得意だったことや、好きだったこと、打ち込んでいたことは、子供にも引き継がれます。子である本人は気づかなかったり、かえって意図的に背(そむ)くこともありますが、遺伝子は正直者です。蛙の子は蛙に育つように出来ているようです。
条件つきで認める真価
一方の条件つきとは、「~できたら認める」という、目標をクリアした場合に認めること。これを、コンディショナル(conditional:条件付きの)ストロークといいます。
たとえば、絵が上手な人がいたとしましょう。ただし、絵が上手なだけでは認めず、その絵が受賞したとき初めて、「さすが」と認めることが、コンディショナル・ストロークです。
条件つきのストロークは、表彰という形で社会に溶け込んでいますよね。国民栄誉賞に警視総監賞。コンクールや試合では金・銀・銅賞。ビジネスでは、社長賞に報奨金。幼稚園では、よくできましたの花丸二十丸。
目標をクリアした場合に認めるわけですから、子供が100点を取ったら「えらいね」と褒める。その時、条件を出した側(この場合は100点を取るように指示した親)も一緒になって、喜びを分かち合わなければなりません。
なぜなら、条件付きということは、逆に考えると、認められる条件へ達しない限り(100点を取らない限り)、永遠に認められ無いということです。100点をとれない子は、100点を取れない人間である烙印を、自分に捺してしまう危険性がある。
それに、条件に達したときに褒めるのは、目に見える結果を認めることですから、誰にでも出来ます。
誰にでも出来るだけに、条件に達してもストロークが発せられないと、ストロークを受け取る側は「どうして褒めてもらえないんだろう?」と不満に思ってしまいます。条件付きでストロークするときは、そうした事々に注意して下さい。
とはいえ、もちろん、実績を認める条件つきのストロークは大切ですし、条件に達したときに味わう達成感は、次の成長への確固たる足がかりになります。
それよりも大切なのは、無条件に認めるストローク。
さあ、どんどん無条件にストロークしましょう。
認めるところが見つからなかったら、食いっぷりでも飲みっぷりでも「いい食いっぷりだねえ」「マナーの良い食べ方だね」と認めてあげれば良いのです。
人は誰しも食事するのですから。
第一章-5項 付加価値 「人間の付加価値」
「生存」「思考」「真価」という3つの原点に付加される価値が、終生のうち、失われるかもしれない不安定な価値である「付加価値」です。
巷では、付加価値を含めて、その人の「人間の価値」と総称しています。
退職したら中元歳暮が来なくなる理由
たとえば、国会議員であること。在職中は先生ですが、選挙に落ちりゃタダの人。
社長職にしたって、倒産したら無職ですから、付加価値。部長職も然り。
金持ちであることも、豪邸に住んでいることも、人気者であることも、官僚であることも、有名企業の社員であることも全て付加価値です。日本を代表する世界的な企業へ入社すれば、
「あの大企業に入社するなんて、すごいねえ!」
と評されます。確かに、入社したのは当の本人に違いありません。が、大企業の看板が後光になっているに過ぎず、本人の人間性が認められているわけではありませんから、会社を辞めれば露と消える儚(はかな)い付加価値です。
それであっても、大企業の一員であることを認められた本人は喜びますし、それが真価であるように錯覚してしまう人もいます。よく、
「退職したら、中元歳暮はおろか、年賀状さえ来なくなった」
と言われるのは、会社名や役職における付加価値が認められていたのであって、人間性としての価値が認められていたわけではなかった証拠。
付加価値は、ルイヴィトンの鞄と同じく、ブランドなのです。そのブランドが、鞄という本質を凌駕(りょうが)することもある。
目に見えやすい付加価値
付加価値ですから、身につけていた宝石は、所有者が亡くなっても高額で取引されます。
クルマも家も預貯金も、社会基盤が根底から覆らない限り、所有者の人間性とは無関係に、社会的な価値を帯つづけます。
付加価値は目に見えやすく、わかりやすいため、付加価値を認めるのは簡単です。「あら!素敵な洋服」「うわ!立派な家」と誉めそやすだけで充分。
ただし、気をつけなければならないのが、ぞんざいで、疎(おろそ)かで、うわべだけな、なおざりのストロークになってしまうこと。
客引きの「社長!社長!」という呼び込みが典型的ですよね。客引きは、社長という社会的地位に敬意を払っているわけではなく、「社長と呼んどきゃ、まぁ気を悪くしないだろう」との、うわべだけのストロークを放っているわけです。
人は、付加価値よりも、人間性を認められたがりますから、たとえば、
「素晴らしいクルマですね」
「いい乗り心地ですねですね」
とクルマばかり褒めて、その人の人間性に触れないでいると、
「ああ、こいつはクルマに興味があるだけで、自分自身に興味があるのではない」
と、カンタンに見抜かれてしまい、クルマを介しただけの付き合いになり、そこから先へは進みにくい。
もちろん、クルマ以上の付き合いを望まないのであれば、それはそれで良ければ良いのですが、浅い付き合いに留まることは言うまでもありません。
そうした軽い付き合いを望む風潮もありますし、素性を明かさなくもよいインターネットのブログなどでは、それが可能ですから、付き合いの度合いを使い分けて楽しめば良い。
ただし、「良い」と伝える行為は、確かにプラスのストロークですが、人間性を認めるのではなく、付加価値のみを認める場合は、くれぐれも褒め殺しにならないように気をつけて下さいね。
プラチナの輝きでストローク
うわべだけならまだしも、空虚で、形だけのストロークともなると、かえって気分を害してしまいます。
そのような、まるでプラスチックのように無機質で、価値が低く、温もりの感じられないプラスのストロークもどきを、プラスチック・ストローク(PlasticStroke)といいます。
心がこもっていないお世辞も、通り一遍の社交辞令も、見え透いたおべっかも、ぜーんぶプラスチック・ストローク。
たとえば、初めて会う相手へ「いつもお世話になっております」と挨拶すれば、誰だって「いつも?初対面なのに?」と違和感を覚えることでしょう。すると、一瞬で「社交辞令だな」と見破り、「通り一遍、うわべだけの挨拶だ」と判断し、「こちらこそ、お世話になっております」と、白々しいプラスチック・ストロークが行き交うことになる。
初対面なのに「お世話になります」「こちらこそ」なんて空々しい会話はナンセンスでしょう?礼も過ぎれば無礼とか、慇懃無礼と言われている通りです。
プラスチック・ストロークで特に気をつけたいのは、儀礼的な挨拶。礼をすれども無関心な状態です。
政治家からの祝電や弔電のように、儀礼的な挨拶が社会通念として認められている場合は構いませんが、然るべき相手へ対する重要な挨拶を申し述べるとき、通り一遍のプラスチック・ストロークで済ましてしまうと、事を荒立てる火種になりかねません。
まるで、結婚の挨拶だというのに、訪問先の留守中に伺って、菓子折りを置いて済ましてしまうようなものです。
つまり、プラスのストロークを送るときは、誠心誠意を言動で表さないと、プラスチック・ストロークになってしまい、逆効果ですので、ご注意くださいね。
その逆に、共に喜び合い、涙を流し合い、抱き合い、称え合う、プラチナのように価値の高いストロークを、プラチナ・ストローク(PlatinumStroke)といいます。
甲子園の優勝シーンや、感動映画のラストシーンを見ての通り、プラチナ・ストロークは激情を呼び起こし、共感を高めます。
これが感動。
感動は空気感染しますので、笑っている人を見れば笑ってしまうように、また、泣いている人を見れば涙が流れるように、相手を感動させるには、あなたが先に感動しなければなりません。
もちろん、相手のことを強く思いやる熱意がなければ、人を感動させることはできません。
プラスのストロークは、プラスチックではなく、貴金属の王と呼ばれているプラチナのストロークで放ちましょう。
プラスのストロークには、プラチナの輝きが似合います。
必殺!殺し文句の黄金ストローク
プラチナに次いで価値の高い黄金のストロークが、俗に「殺し文句」といわれるゴールド・ストローク(GoldStroke)です。
わかりやすくいうと、機が熟した恋人同士におけるプロポーズの一言です。
「結婚しよう」の一言にコロリと参ってしまう。それで、結婚詐欺が無くならないわけです。
第89代小泉総理が、事あるごとに叫んでいた「自民党をブッ壊す!」のように、人を魅了する人は、
「それを言われちゃイチコロよ」
という決め科白(せりふ)を持っていて、意識的に、あるいは無意識のうちに、
「ここぞ!」
という時を選んで、殺し文句を放ちます。
恋愛には「あなたがいないと寂しい」「世界中の誰よりも好き」などの殺し文句があります。
営業には「絶対に損させません」「一緒に頑張りましょう」などの殺し文句があります。
叱るときは「あなたのために言っている」
友達の持ち物を羨(うらや)んで欲しがる子供には「うちはうち。よそはよそ」
心を許して欲しいときには「いつまでもあなたの味方だから」
新しく出会った人と仲良くなるには「あなたのお陰で今日、最高に楽しい一時を過ごせました」
などなど、TPOに合わせて、いろいろな殺し文句があります。言われた相手はコロリと参ってしまいます。そんな殺し文句を、あなたも幾つか持ってみませんか?
「そうしたセリフを覚えなさい」と勧めているのではありません。テクニックは飽くまでテクニック。口先だけの不誠実なストロークだと、ゴールドどころか、プラスチック・ストロークになってしまうので要注意。
どういうセリフがあるか知らなくとも心配ありません。考えなくとも大丈夫。パクる(盗む)のです。
あなたが「言われて(読んで)嬉しかった」と感じた言葉は、あなたの記憶に焼きつくはずです。
それを、同じシーン(TPO)に遭遇したら、意識して使うようにすれば良いのですよ。
黄金のスロトークは、幻の右フックよろしく、ここぞという時に、真心をこめてストロークしてください。
真心をこめると、顔や体の動きが伴います。小泉首相が「自民党をブッ壊す!」と叫ぶときには、握りこぶしを盛んに振り立てていましたよね?
この本の中からもパクれます。あなたが「あっ!」と思った一言があったら、それを記憶しておいて、誰かへ話すだけで良いのです。
カンタンでしょう?(でも本書からはパクらないで下さいね?著作権がありますから:笑)
第二章-1項 不幸を呼びよせる呪文「マイナスのストローク」
あなたが東京ディズニーリゾートへ遊びに行くとしましょう。一週間も前から楽しみ。前夜はワクワク。そして、待ちに待った当日。朝から急な雨。ザーザーどしゃぶり。
「雨かあ。ちぇっ」
晴れてこその東京ディズニーリゾート。日本一の遊園地といえども、雨に降られては台無しです。
「天気が悪い。中止か」
残念でしょうけど、あなたにとって都合の悪い雨だったかも知れませんが、農家にとっては恵みの雨だったかも知れません。
天候に「良い天気」も「悪い天気」も無いのですから、自然現象を恨んでも仕方がない。こうした不慮に遭遇するシーンは、日常にありふれていますね?
でも、あなたを中心に地球が回っているのではないのですから、空模様からして、あなたの思い通りにならないようになっています。
天候だけではありません。手間ひまかけて作った料理が大失敗に終わることもありますし、楽しいはずの旅行にしたって、「こんなハズじゃなかった」とガッカリすることもあります。
望みはあっても思う侭(まま)にならないし、家の中にいても、外にいても、ストレスは貯まる一方。
テレビを点ければ暗いニュースが飛び込んで来る。非難、いじめ、誹謗、中傷、殺伐、敵意、反感、悪態、憎まれ口…不快な出来事が途絶える日は無い。これが偽らざる現実です。
身近を振り返れば、聞き分けのない子供、ダメ出しばかりの親、あなたをないがしろにする伴侶、高い税金、浪費の政治、怒ってばかりのボンクラ上司、使えないタワケ部下、努力しようとしない発注先、無理難題を突きつける顧客、口さがない隣人…。
これでは、ストレスが溜まらないほうがおかしい。
どうしても自然発生するマイナスのストローク
ここに、邪悪の源があります。
軽侮、憎悪、怨念、嫉妬といった醜い臭気は、日常生活から自然と匂い立つようになっています。
マイナスのストロークが発生する原因は、平素の至るところに潜んでいる。
マイナスのストロークとは、誰かを
貶(おとし)め、
謗(そし)り、
妬(ねた)み、
悪口(わるぐち)や陰口(かげぐち)を叩き、
不平不満(ふへいふまん)を口にし、
愚痴(ぐち)をブチまけ、
悪い面ばかりを論(あげつら)って、
あらゆるものを不幸に陥れる負(マイナス)の言動です。
世の中には負(マイナス)の空気が充満していますから、マイナスのストロークが自然発生するようになっています。
あなたが「面白くない」と思うのは全然おかしなことじゃない、しごく真っ当なのですよ。なので、誰から教わるともなく、マイナスのストロークを発してしまうのです。
でも、面白くないのは、あなただけじゃありませんよ?勘違いしないで下さいね?誰だって面白くないんです。
明治維新に尽力した長州藩の高杉晋作は、
「面白き ことも無き世を 面白く 棲みなすものは 心なりけり」
と、辞世の句に詠んでいます。
夏目漱石の名作「草枕」にも、
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
との一節があります。智慧や理屈で割り切ろうとすれば他人と衝突するし、感情の赴くままにすれば本意では無い方向へ流されてしまうし、自己主張すれば立場が狭くなる。
「いろいろと、人の世は、住みにくいものだ」
という夏目哲学(人は智と情と意地の三つで考える)です。
世の中が面白くないのは、現代に生きる私達だけじゃなかった。
約150年前に生きた志士も文豪も「面白くない。住みにくい」と遺しています。一言も「世の中は面白い」なんて言っちゃいません。
世の中は、黙っていたら、つまらなくなるように出来ているんですよ。
お分かりになりますか?
あなたが生まれるズーッと前の昔から、人の世は、住みにくくて、面白くないものだったんです。
「生きていれば良い事がある」なんて慰めに過ぎない。漫然と生きていて、良い事なんかありゃしません。
良い事に巡りあいたかったら、探さなくちゃ見つからない。かといって、動けば抵抗勢力が現れる。
だから、やりもしないうちから「どうせ何をやってもダメだ」と、誰から教わるともなく、マイナスのストロークという不幸の呪文を唱えてしまうのです。
世の中、面白くないんだもの、自然と「面白くない」と言ってしまいがち。
ついつい、マイナスのストロークを発してしまいがちなのです。
すると、負の気が伝染し、ますます蔓延し、マイナスのスパイラルダウン(悪循環)に陥ってしまう。
知らず知らずのうちに発するマイナスのストロークの恐怖
とはいえ、人間だれしも怒りますし、哀しみます。怒りや悲しみの矛先へ悪意を抱くこともあるでしょう。
当然です。人間には喜怒哀楽がありますからね。心の片隅に闇を飼っているのが人間といっていい。
でも、殺してやりたいほど憎むのと、本当に殺してしまうのは、別ですよね?
殺したいと思うぶんには何のお咎めもありませんが、「殺すぞ」と言えば脅迫罪になりますし、殺してしまったら殺人罪になります。
実際に、毎年1300件の殺人事件が起きています(平成14年版犯罪白書)。
1300件の事件が発生しているということは、少なくとも1300人が殺されている。
ということは、本当に殺している人がいるわけです。
殺人とまで行かなくとも「イヤだな」と思えば顔や態度に出ます。陰口でも叩こうものなら、どこに耳があるか分かりません。マイナスのストロークは、どのみちロクな結果にゃならない。
今現在、あなたが「面白くない」「自分は不幸だ」と思っているならば、あなたは純粋な人です。
世の中に蔓延している負の空気をモロに受け止めてしまい、知らず知らずのうちにマイナスのストロークを発してきたはず。
もっともっと不幸を呼び込みたいのなら、今のままでいいんです。ぐちぐちと愚痴をブチまけ、不平タラタラ、悪口や陰口を叩き、人を妬み、除け者にし、叱咤と癇癪の区分けなく怒号するだけで、ちゃーんと不幸になれます。
「いつのまに?」
コンマ一秒ごとに。「面白くない」と口にするだけで一歩。「くだらん」と書くだけで一歩。「億劫だ」と動かないだけで一歩。
わずかコンマ数秒で、一歩ずつ、着実に、不幸のドン底へ至る階段を転がり降りていけます。不幸へ降りる階段は短い。
マイナスのストロークを封じる「言わザル、書かザル、動かザル」
「そんなの嫌だ」と思いますか?「不幸になりたくない」と。
それなら道は一つ。階段を下りたくなかったら、マイナスのストロークは口にしないこと。どんなに面白くなくとも、面白くないとは言わないこと。そして、書かないこと。困ったことがあっても、困った顔をしないことです。
言わザル、書かザル、動かザルで、邪悪な負の考えに染まらないようにして下さい。
染まってしまったが最期、あなたの心も顔つきも醜くなってしまいます。
染まったら、まず笑わなくなります。だって、毎日が面白くないんだもの、笑ってなんかいられない。
笑わない門に福の神は来ないのに、「いつか幸せになりたい」と、とうてい無理な正反対の僥倖(ぎょうこう)を待ち望んでいる。
次に、シワとり手術でも取れないシワが、深く、長く、眉間に刻まれる。その顔を見て、また「イヤだなあ」とつぶやく。
「イヤだなあ」と思うマイナスの意識は、悪循環を起こすようになっています。
自分を儚(はかな)み、世を儚み、万物を儚み、何に対しても否定的になってしまう。
おもしろいもので、負(マイナス)は「負ける」と同じ漢字です。邪悪な言葉を発する人は、一時は好調だとしても、一生という長~い勝負に負けてしまう、と昔の人は考えたのでしょう。
だから、せめて、否定語だけは発しないようにしましょう。
誰かを罵るのはヤメましょう。良いところだって有るハズです。
気まぐれで花を踏みにじるのはヤメましょう。美しさの分らない人になります。
意味もなく虫を握り潰すのもヤメましょう。一寸の虫にだって五分の魂があります。
今すぐに一切のマイナスのストローク
https://stroke-c.blogspot.com/search/label/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AF
を封じましょう。
たったそれだけで、あなたが不幸になることはありません。
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