死海文書の学術的入門書 -土岐健治『死海写本』
本書は、2003年に講談社現代新書で発汗された『はじめての死海写本』を改題して文庫化したものだ。
1946年、死海の北西岸丘陵のクムランと呼ばれる地域の洞窟で大量の写本が発見された。
この死海文書については全容が解明されるのに時間がかかり、様々な憶測が流れた。
もっとも有名なものが「死海文書が初期キリスト教の実態にふれているため、カトリック教会(バチカン)が都合の悪い内容を隠していた」という憶測である。
しかし、死海文書には初期キリスト教に関わる内容は発見されていない。
死海文書には「義の教師」という組織の指導者の名前が出てくるが、イエス・キリストとは時代も思想も異なる人物である。
また、死海文書では世界最古のヘブライ語による旧約聖書の写本が発見されたが、その内容は現存するヘブライ語旧約聖書(マソラ本文)とは異なっている。
死海文書のもっとも大きな意義は、旧約と新約の「中間」時代とされていた、BC2世紀のパレスティナ(ハスモン朝時代)が、旧約聖書成立に深く関わっているという事実を知らしめたことであろう。
以下、本書の内容を簡単にまとめてみる。
1.死海とは?
死海とは、イスラエルとヨルダンにまたがる湖である。
海抜405mと低地にあるために塩分濃度が高く、海水の3%に比べて、死海は30%となる。
このため、死海は浮力が大きく、湖面の浮かんで本が読めることで有名だ。
また、魚類などの生息は確認されておらず、ゆえに死海と呼ばれる。
2.クムランとは?
クムランとは、死海の北西岸にある丘陵地で、パレスティナ自治区にあるが、実効支配しているのはイスラエルである。
このクムランの11の人工的洞窟から発見された写本を「クムラン写本」といい、「死海文書」の大部分を占める。
写真を見ればわかるが、このあたりは見渡すばかりの荒野である。「ドラゴンボール」で悟空とベジータが戦うようなところである。
3.クムラン遺跡
クムラン洞窟の近くには遺跡が発見されていて、数百人が共同生活を送っていたらしい。
これをクムラン遺跡と呼ぶ。
考古学調査によると、発掘された人骨のほとんどは成人男性だが、成人女性のものも数体発見されている。
子どもの人骨がないことから、家族による共同生活が送られていたとは考えられない。
4.クムラン写本の成立時期
クムランで発見された写本を調べた結果、BC3世紀終わり頃からAD1世紀中頃(最終年代はAD68年)に成立したと推定されている。
AD68年といえば、ローマ帝国によるユダヤ戦争のさなかであり、戦火により写本の焼失をおそれたクムラン宗団の指導者により、人工的な洞窟に瓶に入れられて保存されたと考えられている。
5.クムラン写本の内容
クムラン写本の内容は、旧約聖書の正典と外典と偽典、その他の文書群にわかれる。
旧約聖書の正典というのは、AD90年代に「ヤムニア会議」によって定められたもので、クムラン宗団の時代には正典・外典・偽典という違いはなかった。
そして、その内容は現在伝わっている旧約聖書のテキストとは異なっている。
そもそも、旧約聖書のテキストは、ギリシア語による「70人訳」とヘブライ語による「マソラ本文」とは違いがある。
キリスト教新約聖書の作者たちが引用している旧約聖書のテキストは、すべてギリシア語「70人訳」に基づいている。
いっぽう、日本で広く用いられている新共同訳旧約聖書のテキストは、ヘブライ語「マソラ本文」のレニングラード写本を底本としている。
クムラン写本の旧約聖書のテキストはこれらとは異なる。
つまり、旧約聖書のテキストは、定まるまでに、かなりの年月をかけて成立したと考えられる。
7.クムラン写本の「義の教師」と「悪の司祭」
クムラン写本では、旧約聖書関係以外の文書も多く見つかっている。
そのなかで「義の教師」と「悪の司祭」と呼ばれる人物がくりかえし記されている。
「義の教師」については、『ダマスコ文書』の冒頭にその年代が明記されている。
バビロン捕囚から390年+20年に義の教師が現れたという。
これは、BC197年頃となるが、歴史的背景からして、マカバイ戦争(マカベア戦争)以前とは考えにくい。
おそらく「390年」というのは、宗教的意義のある区切りであって、正確な期間ではないであろう。これは旧約聖書やユダヤ教全体にいえることだ。
「悪の司祭」はハスモン朝時代の大祭司ではないかと考えられている。
8.安息日についての厳しい掟
クムラン写本から発見された文書の内容から、クムラン宗団はヨセフス・フラウィウスが『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』で記したエッセネ派に属していると考えられている。
これは、旧約聖書で定められた掟を完全に守るために隠遁した集団であると考えられる。
クムラン写本でも「安息日」については厳しい掟が課されている。
安息日には家畜を助けてはならず、人を助けるために道具を用いることは許されない。
また、安息日には移動する距離も制限されており、厳密にそれを守るならばトイレにも行けない。
だから、エッセネ派は安息日に排便できないということになる。ヨセフス『ユダヤ古代誌』でもそう書かれている。
9.クムラン写本に出てくる最新の事件
クムラン写本でもっとも最新の事件をあつかっているのはBC54年頃のものである。
クムラン写本の一つ「ハバラク書註解」9:3-7の内容は、BC54年のクラッススによるエルサレム神殿財宝掠奪を指すと考えられている。
クラッススはローマ「第一回三頭政治」の一人である。この第一回三頭政治の残りの二人はユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)とポンペイウスである。
余談だが、イエス・キリストの伝道はローマ帝国二代皇帝ティベリウス統治下のAD30年頃になり、80年以上の年月の開きがある。
10.クムラン写本にキリスト教は書かれていない
クムラン写本の多くはAD1世紀のものだが、AD1世紀の歴史事件は記されていない。
ヨセフス『ユダヤ古代誌』でも、クムラン宗団が属していたと思われるエッセネ派は、きわめて保守的であり、加入するには厳しい試練が課せられており、年長者に逆らうことは許されなかった。
新約聖書の共観福音書に記された「荒野の誘惑」は、もしかすると、イエス・キリストとクムラン宗団の接触を物語っているのかもしれない。
ただし、福音書が述べるイエスの神学は「人は安息日のためにあらず」というもので、これは安息日を厳密に守るクムラン宗団とは大きく異るものである。
11.クムラン写本とサドカイ派との関係性
クムラン写本の注目点は、エッセネ派以外にもサドカイ派の思想に基づいた内容が記されていることだ。
具体的には「4QMMT」と呼ばれる写本である。
もともと、サドカイ派という名前はダビデ時代の大祭司ザドクの名に基づく。
ハスモン朝時代は、ザドクの子孫ではない者(ハスモン一族)が大祭司となった。
クムラン写本の「共同体の規則」には複数の写本があるが、それを比較すると、元来クムラン宗団は平等主義であったのが、ザトクの子孫による階級制に移行したと考えられる。
ゆえに「義の教師」はザトクの子孫、「悪の司祭」はハスモン朝の大祭司のいずれかと推定されているのだ。
12.世界最古の旧約聖書のテキストの異同
クムラン写本による、世界最古の旧約聖書のテキストの異同については、そのまま引用する。
E・トーブは、クムラン出土の旧約聖書写本を、グループ分けが困難であることを認めた上で、とりあえず、あえて次のように分類している。その際にトーブは、200の旧約聖書写本の内、72写本はあまりにも断片的すぎるとして分析の対象から除外し、残る128写本に限定して検討する。
モーセ五書の写本の内、①52%がMT(マソラ本文)の本文を示し(あるいは、MTとサマリア五書に同程度に近い)、②37%がいずれのグループにも分類されず、③6.5%がサマリア五書の本文を示し、④4.5%が七十人訳聖書の本文を示している。
モーセ五書以外に関しては、①44%がMTの本文を示し(あるいは、MTと七十人訳聖書に同程度に近い)、②53%がいずれのグループにも分類されず、③3%が七十人訳聖書の本文を示している。
ここから導かれるのは、BC3世紀からAD1世紀にかけての、旧約聖書ヘブライ語本文は、きわめて流動的で、多様性に富んでいることだ。
13.死海文書の断片7Q5と新約聖書マルコ福音書
本書では考慮に値しないとして、述べられていないが「断片7Q5が新約聖書マルコ福音書6:52-53と同一と見なすことが可能」という説もある。
ただし、この断片はキリスト教に関連した写本と思われる唯一の可能性にすぎない。
実際に7Q5を見ていただければわかるが、キリスト教学者が血眼になって調べてたどり着いた可能性がこの断片だけ、であるということだ。
もし、この他のマルコ福音書と思われる箇所が発見されば、世界的ニュースとなるだろうが、そのような知らせは現在届いていない。
14.死海文書幻想の根源、J・アレグロ
死海文書に関する様々な憶測、初期キリスト教に関わる内容が隠されているという情報源は公式調査隊の一人、J・アレグロである。
彼はマンチェスター大学講師であったが、「銅の巻物」が指し示す財宝を発掘しようとして遺跡を壊したり、キリスト教の起源をキノコによる幻覚作用にあると論じた本を発表したりして、1970年にその職を辞している。
その書『聖なるキノコと十字架』の内容は、ユダヤ教もキリスト教も、その起源を聖なる毒キノコ崇拝にあるとしている。
アレグロを死海文書調査隊に推薦したH・ロウリーは音楽用語にからめて「アレグロ君、アダージョだ」と忠告したという。
いずれにせよ、死海文書のヘブライ文字は子音文字しかなく、マソラ本文のような母音を示す記号もないために、その解釈は難しい。
死海文書の全容はすでに公開されているが、学者以外ではその内容を知ることは難しいだろう。
15.まとめ
死海文書により明らかになったクムラン宗団。
その実態は、トーラー(律法)と呼ばれるモーセの掟を守るべく、俗世から離れた宗教組織であった。
安息日には家畜を助けてはならず、道具を使って人を助けてはならず、排便すらできないというその掟は、キリスト教神学とは真逆に位置するといっていい。
死海文書の旧約聖書写本は世界最古のものであるが、これまでのテキストとは異なる内容である。
旧約聖書のテキストが定まったのは、少なくともAD90年以降の「ヤムニア会議」を経てからのものであり、それまでは様々なバージョンが残されていた。
日本語訳の旧約聖書が底本としているのは、1008年に作成された「レニングラード写本」であるが、死海文書の発見により、ギリシャ語訳である「70人訳」の価値が改めて見直されることになった。
宗教改革以降、聖書の権威は高められていたが、旧約聖書は太古から語句が定められた書物ではないのである。
死海文書はAD1世紀に作成された写本が多いが、そのなかで歴史事件を取り上げている最新のものはBC54年、ローマの第一回三頭政治の時代である。
死海文書を瓶に保存したと思われるクムラン宗団は、もしかしたら、イエス・キリストと接触したのかもしれないが、そのような内容は死海文書にはまったく記されていない。
また、その内容はエッセネ派だけではなくサドカイ派のものもある。サドカイ派の語源は、ダビデ時代の大祭司ザドクであり、ザドクの子孫ではない者が大祭司となったハスモン朝に反発したと考えられている。
だから、死海文書の内容を理解するためには、まずヨセフス『ユダヤ古代誌』や旧約聖書外典『マカバイ記』を読む必要があるだろう。
死海文書はキリスト教成立のヒントになるかもしれないが、隠された事実が記されているわけではないのである。