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瞑想の対象が欲望の対象に

ジョルジョ・アガンベンの「知の巨人」ぶりに圧倒されている。いま読んでいる『スタンツェ』における知の編集の仕方は大いに好みだ。
こういう知の扱い方は見習いたい。

フィチーノから、デューラーへ、パノフスキー、そして、フロイトへ。メランコリーがエロスと結び付けられるその流れに関心させられる。

同じ節でフィチーノは、メランコリックなエロスに固有の特徴を、転位と過剰の中に求めている。つまり彼によれば、「メランコリックなエロスは、愛をむさぼったために、瞑想の対象としてあるものを抱擁の欲望に変えてしまおうとする者によく起こる」というのである。メランコリックな混乱を駆り立てるエロティックな性向は、ここにおいて、本来はただ瞑想の対象としてのみ存在するものに触れたい、そしてそれを所有したという性向として示される。

瞑想の欲望が抱擁の欲望に変換される。メランコリーがエロスに結び付けられる地点をここに置いたあと、

パノフスキーがデューラーの版画と関連づけたガンのヘンリクスの文章は、この意味において解釈されなければならない。それによれば、メランコリー気質者たちは、「形のないものを描くことはできない」。なぜなら彼らは、「空間と尺度の彼方にまで知性を広げる」ことはできないからである。

という、バタイユが描くエロティシズムに近いところにたどり着く。

形のないものは描けないからこそ、手に届かないからこそ、エロティシズムの対象となる。

そのことをアガンベンはうまく書く。

ここで問題になっているのは単に、よく言われるようなメランコリー気質者の心の構造の限界でもなければ、その限界のために彼らが形而上学的な領域から排除されているということでもない。そうではなくて、限界はむしろ、弁証法的な性格のものである。

と。
そして、だからこそ、

つまり、この弁証法的な限界は、瞑想の意志を「抱擁の欲望」に変えようとするエロティックな違反行為の衝動との関連においてこそ、その意味を獲得するのである。それゆえ、形のないものを思い描くことができないということと、それを抱擁の対象に変えようとする欲望とは、同じプロセスの2つの面にほかならない。

この鮮やかな情報の捌き方。こういうの好き。

最後にアガンベンはこうまとめる。

この過程においては、瞑想というメランコリー気質者の伝統的な使命は、それを内側から脅かす欲望の混乱にさらされているのである。

ここからフロイトへ。そして、フロイトを経て、「怠惰な者の後退りとは、欲望の喪失を暴露しているのではなく、達成できないにもかかわらず、むしろその欲望の対象になろうとしているということ」という中世の教父たちのとらえた怠惰との関係へと展開される。

つまりそこでは、1度も所有されたこのがないために失うこともないものが、あたかも失われたのように思われ、おそらく決して現実的でないために所有できないものが、あたかも失われた対象として同化されたかのように思われるのである。

この知の巨人の異なる領域の知を見事に結び付けて語る手捌きには感嘆するしかない。

#ルネサンス #アガンベン

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