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不安を弄ぶスタンスをもって…

統合。
分析のように分けるのではなく合わせることで統べる。

僕らも仕事でリサーチした多数の情報を組み合わせたり比較したりフレームワークを考えたりしながら、個々の情報のみでは見えない知見を見つけだす作業を必ず行なう。
とうぜん、この統合作業の醍醐味は、普段は隠された知を、情報の重ね合わせから発見=発掘することだ。
だから、思いも寄らぬ情報同士の組み合わせから、いままで気づかなかったことに気づけると「よしっ」と思う。

アトラス:意味のマッピング

けれど、以下で示す「操作的領野」に思いを巡らす例のような、まったく無関係のもの同士の重ね合わせから知を得るのは、まさにセンス以外の何でもない。

操作的領野とは、或る限定された枠内において、異質な現実の秩序を遭遇させ、不調和な事物同士を重層決定された関係のもとで扱うことができるような、配置と変容の独自の規則をもつ領野である。古代の占いにおいて、獣を捌いて肝臓が取り出され、その表面が地図のように区画されたうえで、それぞれの部位からさまざまな兆候が読み取られる場合、そこでは肝臓と外界ということなる秩序が重ね合わされ、臓器の微細な形状が政治的・社会的事件のきざしを表わしている。人体の各部位に黄道十二宮の象徴を配置してミクロコスモスとマクロコスモスの照応を示した、いわゆる「獣帯人間」の図や、台湾先住民が小石やビーズ、胡桃の実をそのうえに配置して悪魔祓いの儀式を行なうバナナの葉などもまた、同様の操作的領野として働いている。

田中純さんの『歴史の地震計』で、ディディ=ユベルマンの『アトラス、あるいは不安な悦ばしき知』を紹介するなかの一節だ。

引用中に、捌いた獣の肝臓の「表面が地図のように区画された」状態に重なるときに占いが行われるという「操作的領野」そのものがある種の統合作業にほかならないのだけれど、この例をディディ=ユベルマン自身が本のタイトルでもアトラス=地図に重ね合わせていることも統合的だ。
そして、このアトラスは他ならなぬギリシア神話に登場する巨人であるアトラスでもあり、この天球を背負う神の苦難がそこからまた肝臓を抉られる獣の苦難に戻っていく。

こうした重ね合わせによって得られる知を、ディディ=ユベルマンは本のサブタイトルどおり「不安な悦ばしき知」と考えていることが僕にはとても悦ばしい。なぜなら、優れた統合の結果得られるのは決して分かりやすい知なのではなく、むしろ、見つけた人を不安にさせるような知だと思うから。
なぜなら、不安を覚えさせないような発見など、誰にも理解できる、どうでもいい発見であり、なかなか見つからない新たな発見にはそれなりの見つけにくい理由があって、その理由の一つが人の不安を呼び起こすということに他ならない。不安を感じるがゆえに、人はそこから目を逸らし、それを見つけない。

不安を弄ぶスタンスを

だから、リサーチが苦手な人は大抵、知ることの不安、わかることによる不安を避けたがる人だ。わかっていることだけに閉じこもり、新たな発見も自分の元からもっている理解の範疇に無理やり押し込め、発見そのものを潰してしまう。それでいてリサーチでは新たな発見は得られないと言ったりするから、やれやれだ。

このディディ=ユベルマンや、田中純さんの統合センスを知ると、まだまだ技を磨かなくてはという気にさせられる。

不安を悦ぶスタンスをもって。

#リサーチ #理解

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