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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2018年12月の記事一覧

フィクション

あともういくつ寝ると、年末年始の休みというところで、風邪をひいた。休みだと思って気が抜けると、熱とか出しやすいのは昔からだ。昨日ちょっと気が抜ける出来事があったからかもしれない。 今日は朝から頭が痛いなと思っていたが、午前中仕事をするうちに熱っぽくなってきたので、午後から早退させてもらって、家で寝ていた。 早めに薬を飲んで寝てたこともあって、昼間よりは体調もマシになった。 それもあって、数日前に手に入れた円城塔の『エピローグ』を読みはじめた。風邪であまり頭が冴えないので、む

変わることを前提として

物事を動的に捉えることが必要だと思う。動的に、というのは、物事は常に変化していくものを前提として考えるという意味で言っている。 何かを行えば、それを行う前とは状況が変わることが多い。積極的に何かを行わずとも勝手に状況が変わって、その状況によって人の心理にも変化が生まれたりする。 いや、変わるのは人の心理だけではない。非人間的な環境の構成要素だって常に変わり続けている。 だから、何かを固定化して理解し、判断するのは、あまり意味がないことだと思う。 何かしようとする際に、それ

ステージアップ

旧来的な組織に対して、これまでにない新しい物事を実現しようとすると、人というものはやはり見たこと、体験したことのないものに抵抗しがちであるがゆえに、あまりに事を急いてしまえばかえって物事が前に進まなくなる傾向がある。 一気に高いところに登ってくださいといっても、不安の方が先にある立つのは、自分で何かを変えるということをしたことがない人にとっては自然なことだと思う。 けれど、いまや変わらずに済ませられる状況などはこの日本にはほとんど存在しないはずだ。 だから俗に言う「小さく

なるほどの回数

あ、この人、学びがはやいなと思える人がいる。 それはきっと必ずしも、絶対的な学びのはやさ/おそさではなくて、その時の状況(何を学べる環境にあるか、学ぶきっかけを与えてくれる相手との相性、とか)との関係性においてもあるとは思うのだけど、学びのはやさに必要なのは、学ぶ本人が問題意識をもてているかどうかだと思う。簡単に言えば、学ぶ準備ができているかだと思う。 何かを学ぶためには、その準備として、何を学ぶのか?のおおよそのターゲティングができている必要がある。仮説ベースで問いが立て

ともに学ぶ

今日わかったことがある。 自分にとって、いっしょに仕事をしていて楽しいなと思えるのは、いっしょに仕事をすることを通じて、ともに学びあえる人と仕事ができることなんだな、と。 それは経験やスキル、立場の差がある同士だろうと関係ない。経験が僕より浅かろうと立場的には僕の方が上であろうと、ともに学びあえる相手というのはいる。そりゃそうだ。僕だってまだまだ学び続けないといけないし、学ぶのであって教えてもらうわけではないのだから、相手が自分の先生であるような必要はこれっぽっちもない。

自分の外で考える(あるいは東山魁夷展)

"カントにはいささか申し訳ないが、ぼくらは自分自身の思考の外で思考しなければならない" -スティーブン・シャヴィロ『モノたちの宇宙 思弁的実在論とは』より 社会のためになることをする。 Social Goodな考えがデフォルトになるにつれ、表面化してきた問題の1つとして、「何をGoodと考えるか」には人それぞれ大きな違いがあり、その違いがそれぞれ良いことをなそうとする者同士の間でGoodとは程遠い衝突、諍いの火種となるということが挙げられる。良いことをなそうとする者同士の間