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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2018年2月の記事一覧

情報に包まれる

今日、ふと思った。 映しだされた情報を見るか、情報を身体に浴びるのか。そんな2つの情報への接し方がある、と。 前者はこちらが見ているのだが、後者はあちらから見られているという感覚。あるいは前者は情報を得るためフォーカスしてるのだが、後者はぼんやりと情報に包まれているような感覚。 マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で、活版印刷以前と以降を比べて、光との関係で論じていたことから連想したイメージだ。 視覚とそれ以外の感覚「グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために

どん底のさらに下で…

本質なるものほど、本質的でないものはないと思う。 答えを固定したがる人間の悪いクセだ。何が本質かなど定まるものではない。何が質的に意味があり、そうでないかはその判断がなされるコンテキストに依るのだし、そもそも、その判断すら時代や文化によっても大きく異なる。それにどれもこれも人間にとっての意味しかない。要は、すこしも「本質的」でなどないわけだ。 乞食でも何か余計なものを持っているどこまで虚飾を剥がせば、本質が出てくるか? シェイクスピアの『リア王』には、こんなセリフがある。

生きたInformation Architecture

昨日は、World IA Day 2018 Tokyoでの「曖昧さと不確実性」というタイトルでの講演だった。はじめて逐次通訳が入る形での講演だったが、話の仕方や時間コントロールがむずかしかった。 イベント自体のテーマが「IAの倫理と哲学」だったので、「情報はそもそも曖昧で不確実なものである」ことを伝えたいとして話をした。 背景としては「常識だと思っていたものが大きく変化する時代」において、「どうデザインするか? 何をデザインするか? 以上に、何故デザインをするのか?が問われ

わからないことを想像する

仕事を進める上で想像力があるかないかは大事だなというのは、いろんな人を見ていて感じること。 ひとつの話を聞いて、どこまでそれに関連することを想像できるか。 その話に関連することで自分が何をやるべきか、何がその話に似ていて参考とすることができるか、それができるなら違う領域ではあるけど、こんなことも可能ではないか、とか。 そんな想像が働けば、話をしてる人にちょっと質問をしてみて、違う角度の情報を得たり、自分が気にしていたことの答えを引きだしたり、相手が自分でも言語化できなかった

思考にはノイズを取り入れて

ノイズって大事だ。 穏やかすぎる均質な状況からは、クリエイティブなものは生まれてこないんだなと感じる。思考を刺激する異質なものの存在は思考の枠組みを柔軟なものにするためには必要だ。 もちろん、ノイズだらけで、どこにも主旋律的なものが存在しない状況では話にならない。でも、次にどんなものが飛びだしてくるかわからない緊迫感は、創造的なアウトプットが必要なプロジェクトには欠かせない。 プロジェクトには波風が必要だ。 あまりに似たもの同士、適度に利口な人が集まると、逆にプロジェクト

欺かれた視覚

視覚のウソ。 そして局を結ぶに、事物とわれわれとの距離を知るためのあらゆる方法が不確かなものだと言わざるを得ない。……それらのさまざまな点より発した光線がすべて目の後部の一点に収斂しないが故であって、遠近法の絵を見ればそれがいかに易々と欺かれるものかが分かる。というのも描かれている形象が、そうあるべきだとわれわれが思っているのより小さかったり、その色彩が少しぼやけていたり、輪郭が少し曖昧だったりすると、それらの形象は実際より遠くにあるもののように、また実際より大きく見え

詩のある処

有名なエッカーマンによる『ゲーテとの対話』を読みはじめた。ゲーテの晩年における交流が記されたものだが、なかなか面白い。 例えば、ゲーテがエッカーマンに話したこんな言葉が記録されている。 世界は大きく豊かだし、人生はまことに多種多様なものだから、詩をつくるきっかけに事欠くようなことは決してない。しかし、詩はすべて機会の詩(ゲレーデンハイツゲディヒテ)でなければいけない。つまり、現実が詩作のための動機と素材をあたえるのでなければならない。ある特殊な場合が、まさに詩人の手に

境界でなく、動的な連関として

超音速気流の研究で知られる物理学者のエルンスト・マッハは1886年の『感覚の分析』という著書で、こんな自画像を提示している。 なるほど、自分で自分を見て描いたら、こうなるだろうと思う一方、鼻はなんとか見えるが、目の上のまつ毛らしきものは見えるんだろうか? 日本人とヨーロッパ人の彫りの深さの問題? とか思ったりする。 実際、鼻と身体の距離の関係上、両方が同時にこんなに明確に見えることはないだろう。 外界と自分、身体と心の曖昧な境界『パウル・クレー 造形の宇宙』で、著者の前田

曖昧さと不確実性

2月24日(土)に開催される、World IA Day 2018の東京セッションですこしお話しさせてもらうことになりました。 「曖昧さと不確実性」というタイトルで講演させてもらうのと、パネルディスカッションへの参加になります。 IAがテーマで、曖昧さとか、不確実性とかというと、そういうのはデザインする上で排除すべきという話をしそうですけど、そうじゃありません。 むしろ、情報って、そもそも曖昧で不確実なものだよね、という話をするつもりです。 知覚は経験を通じて能動的に観察者

自然対人工の単純でない構図

自然と人間。ジョルジュ・バタイユが人間を自然を否定する動物だと言っていることは昨日書いた。 そして、いわゆる祝祭が、動物であることを否定した人間が、動物であったことを確認するかのような機能を持っていたことを紹介した。 ロザリー・L・コリーは『シェイクスピアの生ける芸術』で、シェイクスピアが書いた牧歌形式の演劇をいくつか紹介しているが、この牧歌型の劇の形式こそ、祝祭による自然、動物への一時的回帰を思わせる劇の型を持っているという点で、それ以降、祝祭というものが社会からすこしず

自然を否定する動物

人間と自然との距離というものを考えると面白い。人間と獣と違いと言ってもいい。1つ前の「ルドン--秘密の花園」で話題にしたオディロン・ルドンのテーマもそれに近いものがある。 人間は「自然を否定する動物」だと、ジョルジュ・バタイユはいう。「普遍経済論の試み」の第2巻にあたる『エロティシズムの歴史』において。「人間は労働によって自然を否定し、これを破壊して人工的な世界に変える」とバタイユは続けている。 『呪われた部分 有用性の限界』というのが「普遍経済論の試み」の第1巻だが、労

ルドン--秘密の花園

現代の状況を表すキーワードのひとつとしてVUCAがある。 Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧さ)の頭文字をとったワードだ。 僕は、この4つのキーワードから現代の社会環境以上に、自然だとか生物のことを思い浮かべてしまう。 僕らはいま、そういう社会環境になったことに慌てふためいている考えあるが、自然とか生物にとってはVUCAな状態がむしろデフォルトなのだろうと思ってみたりする。もちろん、そ

形象と存在の曖昧な輪郭

ダリオ・ガンボーニの『潜在的イメージ』が面白い。 ガンボーニはこの本で曖昧で不定形なイメージのもつ、創造的な性質について論じている。ガンボーニが「潜在的」と呼ぶイメージのもつ曖昧で多義的な性質は、ひとつの概念に囚われない複数の可能性を見る人に与える。 それはアルチンボルドが描く、植物や動物の集合にも見えるし、人物像にも見えるダブルイメージがあらかじめ設計された絵と違う。雲やダ・ヴィンチのいう壁のしみがいろんな像を想像させるのと同じ、不定形であるがゆえに、さまざまな想像を駆

愚直に読み、愚直に書く

本は比較的読む方だと思う。 極端に多いとは思わないが、まあまあそこそこ読んでいるのだろう。 分厚い本が好みなので冊数は多くない。読みにくい本が多いので尚更だろう。 分厚く読みにくい本が好きなのは、厚さと読みにくさ故では本当はない。単に読みたい本にそういう本が多い傾向にあるだけだ。 例えば、今年になって読んだのは何だろう? 昨年から読み続けていた本では、ホイジンガ『中世の秋』、ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ』、フレデリック・ボワイエ他『アートで魅せる 旧約聖書物語』、ジ