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生きていてさえくれればいい

ひろゆきと朋ちゃんこと華原朋美の対談動画観た。

朋ちゃんの言葉や考え方一つひとつを切り出して哲学のように読み解くとか、ひろゆきが(別に本当はそう思ってないだろうに)「タレントとはこうあるべきでは?」とあえてボールを投げつけ続けて、朋ちゃんを「剥がしていく」感じをメタ的に論じるとか、いろいろ動画に対して人と語りたくなる要素はあるけど、もうずっと私は「人が生きててくれればそれでいい」という感情になってた。

33歳の私だと、朋ちゃんって「ちょっと上の世代のカリスマ」になるので、煮詰めた記憶にしちゃうと「小室哲哉と付き合ってるぶりっ子の歌がうまい歌手」とかになっちゃうんだけど、朋ちゃんの実家が私の通っていた塾の信号挟んで隣ぐらいのとこにあって、ガス中毒事件の日も塾の帰りに報道陣と救急車ですごいことになっている道を自転車で横切った思い出があったりするので、朋ちゃんの存在自体が自分の中の「THE・芸能界」の原体験になっているような気もどこかでしている。

そうは言っても当たり前だけど、人生のほとんどを朋ちゃんのことなど気にせず生きてるわけで、たまに思い出すタイミングといえばもはや、たいてい何か「危なっかしいこと」で彼女が報道されている時ぐらい。

ただ、このコロナ禍の時代に、突然に旅立ってしまう芸能人も多くいる中、どんな形であれ生き延びていてくれて、「誰がなんと言おうとこれが私」と言って姿を見せてくれるだけで、気分としては本当にありがたいなと。

いや、なんか正直それぐらい、マジにみんな(みんなって、公人私人かかわらず地球の人ね)予測不能すぎて、心配したらキリがないじゃないですか。

だから、ひとりの人が「生きてる」って事実だけでもめっちゃ安心するんですよ。

朋ちゃんを見れる日は最近、「あ、今日も人がひとり生き延びてくれていた」って感情になるんだよな。「命の可視化」的な。

今の朋ちゃんをちょっとうまいこと言ってイジってる人とか当然いて、それに対して「一生懸命生きてる人を馬鹿にするな!」みたいなことを言いたくなったりもするけど、それすらも野暮だと思わせられるぐらい圧倒的な「今日もいてくれてありがとう」な人じゃないですか。

イジってるやつらもな、知らず知らずのうちに「命の可視化」を目の当たりにしてるんだからな、感謝しろよと。

だってね、旅立つ人って何も言わずにいくじゃない。そして同時に生きてる人の誰も「生きてます」ってアピールしないじゃない。

だから朋ちゃんが存在し発信してるのを見れてる我々は全員「命の証明」を受け取ってることになってるんすよ。

あ、なんだろなんかスピった感じになってるかも(笑)

でも私はそう思いますね。

生きてるぞ!ヒューヒューだぞ!

桃の天然水の朋ちゃんかわいすぎるから貼っておこーっと。

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