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0. まったり建築論批評とは何か

何を訳のわからないことを言ってるんだ。

皆さんも哲学とか思想に関する本を読んだり話を聞いたりした時にこう感じたことはないだろうか。本当にただただ訳がわからない。こんなものを書いたり言ったりしてる人はどうかしていると思ってしまう。その結果、有名な本には「解説本」なんてものが存在してしまっている。本屋に行けば「マンガで分かるなんちゃら」なんて本が平積みになっていたりもする。

アートに関する言説も同様だ。特に現代アートは意味不明だ。現代美術館に行けば謎の物体が並んでいる。一応それらの作品の横には説明がついているものの、読んだところでさっぱりだ。なんのためにそれらの説明が設置しているのだろうか。完全に自己満足の世界じゃないか。そしてそんな作品に高額な値段がついていたりするからさらに驚かされる。

さて、本題である建築に話を移そう。建築も全く同じ状況になっているのではないだろうか。建築は思想的側面と美術的側面も持っている。すなわち、よくわからなくても良いものとよくわからなくても良いものを掛け合わせたようなもかもしれない。そうなると何でも言いたい放題になることを良いことによく訳のわからないことを平気でいう人たちが存在する。彼らを「建築家もどき」とでも呼んでおこうか。

今度、建築家なんて呼ばれる人たちがテレビで出てきたらその人の話を聞いてみよう。ちゃんと聞いてみよう。「この空間が・・・」なんて言い出したらもっと真剣に聞いてみよう。言っといて申し訳ないが、真剣に聞いたところで訳がわからないことがわかる。よくわかわない横文字とか自分で作った言葉とかを使いだすだろう。いやいや、あなた以外わかる訳ねぇじゃん。ちゃんと定義してくれよ。

しかしそのような建築家の中には、大学で教授をやっているなんて人もいる。こうなるとさらにタチが悪い。大学の教授なのだから、この人の言っていることは正しい、と思ってしまう。しかしやっぱり何を言っているかは難解だ。わざとそんなまどろっこしい話し方をしているのではないかと疑ってしまう。訳がわからなそうなことを言えばそれっぽいと思っているのだろうか。相手が理解しやすい話し方で話したり、理解しやすい文章を書いた方が良いと思うのだが、彼らにはそんな能力がないと判断するしかない。

さらに、そんなちょっと有名になった建築家たちはすぐに講演をする。そしてそのお話を食い入るように聞く人たちが発生する。建築を学ぶ学生が主体だ。彼らの顔を見れば一目瞭然だが、お話を聞けることに浮かれている。まるでどこかの宗教の教祖様だ。言っていることはちんぷんかんぷんでもいい。お話を聞けることが重要なのだ。見事に洗脳されているじゃないか。

最後にお決まりなのは、そのように有名になった建築家は本を書く。頼むから建築をつくってくれ。ただ、本を書いてくれているがゆえにこちらも彼らの論考をきちんと精査できるというものだ。

ただ、お金儲けの本とかであれば見れば誰でもすぐにインチキだとわかる。例えば、『働かないで年収5160万円稼ぐ方法』なんて嘘に決まってる。そんなんあったら誰でもやってる。あなたがそれをもう一度やればいい。n=1 であればまだいいが、n=0 だろなんて本もある。このような本の種類には、お金儲けの他にも、ダイエット・英語学習・健康・自己啓発などが挙げられるだろう。これらは分かりやすく、どんな読者でもすぐに馬鹿げていると判断できるからまだ罪は軽い。

しかし建築になると話は別だ。専門性という壁を築くことで、本当か嘘か、良いことか悪いことか、意味があるのかないのか、などを巧妙に隠している。じゃあ私がやってやろう。世の中にある建築論を批評してやろうじゃないか、と思って始めたのがこの「まったり建築論批評」である。

いくつか断っておこう。題名に「まったり」とついていることからわかる通り、この批評は正確性を追求しないし、網羅性も追求しない。さらに言えば中立性も追求しない。書き手の独断と偏見に満ちている。予防線になってしまうが言っておかなければならない。私は研究者ではないのだ。

そして基本的には「批判」する。著者の方々の中には嫌な思いをする方もいるかもしれない。ということで、これ以降の記事の、批評の部分は有料にする。面白いと思ったらぜひ読んでみて欲しい。

それでは第1話をお楽しみに。


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