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「故あって」

 こんなタイトルでは何のこっちゃ良くわからない。一か月に一回のペースで投稿しているのに、三度目にして早くもネタ切れ感が出ている。とはいえ、こんな記事読んでる人もおらんだろうから辛くなったらよしてしまえば良いだけだ。では何故書いているのか、というのが今回の主題である。だから故あって「故あって」を書く。

 もともとぼくは文字を書く人である。小説家とかライターとか、そんな良いもんじゃない。あくまでも個人の趣味で書き溜めてあるものがいくらかある。構想ウン年とかいうやつだろう。構想だけしてるやつは世の中にいくらもいようが、実際に書き溜めているやつはほどほどになるだろう。同人誌として出版するやつは小指の爪の先くらいだろうか。ぼくもいずれは同人誌とまとめたいものだ。さて、そんなことはどうでもいいが、ここのところ本業のほうがどうにも忙しく、そしてなんだか書く気が起こらず久しく文章を起こすということをしなかった。
 そこでリハビリを兼ねて、一か月に一本をノルマにして記事を投稿し始めた。それがこの「故あって~」である。文字数は1500字から1600字を目安にしている。原稿用紙にして4枚分だ。実際に手書きするとなかなかの量になるが、キーボードをかたかた言わせる分には大した分量ではない。大学でも2000字程度のレポートがよく課題に出されるが、こんなものは課題とは言えぬ程度の量だ。当初は1年くらい続けばいいな、と思ってやり始めたが、如何せん題材が早くもこの有様である。この分では半年持たぬかもしれない。それもまた仕方ないだろう。なにせ自己満足とリハビリだ。

 そして、原稿用紙4枚を大した分量ではないとは書いたが、実際に書いてみるとやはり、なまっていることが身に染みる。言葉選びの癖が出るのは仕方もあるまいが、単語をとっさに頭に出す反射神経は衰えている。てにをはの助詞も危ない。書き続ける体力もない。気がつけば関係ないサイトを開いてしまっていたりする。考えてみれば、久しく職場の外で人と会話をしてこなかった。この一年ほど脳の中で、言葉をつむぐ部分を使ってこなかったからだろう。こんなことでは、なおさら先が思いやられる。
 いずれ更新が止まったら、単純に続けられなかったんだな、と思っておいて頂きたい。そんな言い訳を今からしておくことにする。大人になるということは、言い訳がうまくなることかもしれぬ。あるいは言い訳することにためらいがなくなることかもしれない。
 小学校だか中学校で読んだ『少年の日の思い出』をやたらと覚えているのだが、仕事やこういう場で自分を慰めるために心中で言い訳をするたびに「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」という我が心のエーミールが、自分に対して侮蔑に満ちた目線と言葉を投げかけてくる。
 この心根があるうちは、結局はまだ言い訳をするということにためらいがあるのだろう。いい歳をこいて、あの小生意気な日々から心が成長していないということなのだろうか。

 長々脇道に逸れたことをいろいろ書いてきたが、やはり書き始めてみると楽しいは楽しい。本来の目的であった、もともと書き溜めていたものへの意欲も出てきた。本稿からの逃避先が、書きたいものへ向かうのなら結構なことだ。その意味ではこの「故あって」も目的を果たすことができたと言えるだろう。
 人は夢がなければ生きていけないというのは陳腐な言葉だが、確かに夢がないと仕事や生活は雑になる。どうやらぼくは、まだぼくの人生に希望を持ち続けたいようだ。「故あって」はぼくの希望のともしびの一つとなったらしい。
 だがともしびを燃やし続けるにも燃料がいる。繰り返しになるが、早くも燃料切れに悩み始めている、この調子で一か月一本の己に課したノルマを果たすことができるのだろうか。我が心のエーミールは、今日もまたそっと自分を覗き込んでくる。

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