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新聞を読むということと、アナログとデジタルと。

日課はスクラップ。毎日、新聞各紙の気になる記事をカッターでせっせと切り抜き、裏面に糊を塗り、スクラップブックに貼り付ける。「日課」と言いながら、日々の仕事が山積し、正直、数日分をまとめてということも間々ある。その結果、事務所にはスクラップブックがずらり。

2016-11-08 スクラップ (2)

フェルマーの最終定理が完全に証明された、という記事が中学生か高校生の頃に新聞に載った。切り抜き、貼ったその記事は、今も残っている。実はフェルマーの最終定理のことはよく理解できていないが、長年、数学界で証明されなかったその難問が解明された歴史的な事実は、私の脳裏に刻まれている。そして、その時のスクラップブックをめくると記憶が鮮明になる。ああ、そうだった、と。

新聞は、歴史の証言者だ。証言する歴史は、ありとあらゆる分野にわたる。朝夕に発行される新聞をめくると、自分自身がその時点で興味のあることもないことも、この世界でこの半日に起きたとされる出来事が、それぞれの新聞社の価値判断によって割り付けられ、大小さまざまな見出しが付けられ、まとめられている。ある国の政情不安の記事の隣に日本国内の政局の話が載っていたり、文化人の訃報が報じられたりしている。分厚い紙面の中ほどには社説や記者の論文があり、読者の寄稿もある。野球やサッカーの試合結果と順位、おすすめの書籍や人生相談、ある地域の高校生がたくさんの検定試験に合格した、ある警察署で柔道や剣道の大会が開かれたといった話題モノまで。高校野球の地方予選のひとつひとつの試合の選評も載っている。

まさに、情報のデパート。どれを詳しく読むかは、新聞を手に取ったひとりひとりの自由。ただ、読みたい記事の横にある記事が、気になることもある。ふと目にしたその記事が、その後の自分自身の思考、行動に影響を与えることもある。自らその情報を取りに行ったわけではないのに。

新聞というアナログの世界から広がる可能性もある。今、私自身もデジタル機器を駆使し、インターネットを積極的に活用しているが、新聞は手放せない。気になる記事を切り抜くと、自然と記憶に残る。「あの頃にあんな記事を読んだな」となんとなく思い出し、情報を頭の中から取り出し、日々の仕事につなげることもできる。デジタルで検索しなくても。

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先週、古賀市の総合教育会議が開かれた。デジタルとアナログ、それぞれの価値が話題になり、私は私の考える「新聞の価値」を話した。

この文章はインターネットで発信しているし、その価値は大きい。でも、新聞の価値も社会で再考したい。

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