も・て・な・し・た

医療系の研究施設で働いている。同僚はいない。独り現場だからだ。加えて独り暮らしをしている。24時間ぼっち。"喋らない奴"の僕にとっては理想の生活スタイルだろう。

とはいえ仕事場ではその区画の管理者だ。エリアを利用する研究員さんとはコミュニケーションも必要となる。つまり僕が常駐する居室には、研究員という名のお客さんが訪れるのだ。

居室の広さは6畳くらい。機器を管理する大きな端末などがあるので、いくぶん狭くも感じる。3人も入れば圧迫感もあるだろう。ここでお客さんをもてなすのだ。

なにかと準備が必要だろう。だが大丈夫だ。前任者である主任兄さんからは、そこら辺のノウハウも引き継いでいる。カップを用意しておくのだ。コーヒーはインスタントでいい。朝一番に給湯器のスイッチも押しておくのも忘れない。

ただそれだけでは駄目だ。お客さんの来訪は滅多にない。道具は使わないと埃をかぶる。コーヒーだって消費期限を迎えてしまうだろう。自分でも使うのだ。毎日毎日。朝出勤したらコーヒーを飲む。それをルーチンワークに入れた。すべてはお客さんをもてなすためなのである。

無言も回避したい。僕は"喋らない奴"なのだ。誰とでも楽しく会話できるスキルは持ち合わせていない。そこで部屋にネタを仕込んでおくことにした。私物の持ち込みは了承を得ている。所属している野球チームの写真を飾っておいた。車の写真もだ。料理の本も専門書に紛れて置いてある。準備は完璧なのだ。

最初にやってきたお客さんは、その区画のヘビーユーザーだった。顔合わせは済ましてあるので、はじめましてではない。予定通りもてなす。お話もいっぱいしてくれた。お客さんは遊びマスターな一面も持ち合わせてる人だった。経験豊富。行動力も高い。普通に聞いてておもしろかった。

共通項もあった。マニュアル車が好きなところだ。そんなM兄さんは僕の車にも興味深々。いつかドライブをする約束もした。そして仕事の打ち合わせも同時に行った。

次にやってみたお客さんは研究員ではなかった。研究員についている助手さんだ。彼女もその区画のヘビーユーザー。今後の仕事の打ち合わせを済ませに来たのだ。そして僕の車にも興味深々。そう、彼女もマニュアル車が好きだった。そんなM姉さんの車も興味深いもの。やはり田舎だ。MT率は高い。苦労や作法が多いだけ、話も弾む。そのことが一番なによりだった。

M姉さんの上役である研究員さんも訪れた。最近、海外の学会に行ったらしく、そこでのお土産を頂いてしまった。ワニの缶詰。おいしいらしい。おそらく英語と思われる文字が並んでいた。

このワニ先生には前任者の主任兄さんもお世話になっていたらしい。実験の補助も行っていたからだ。ただし正式な業務ではない。だから僕が引継いで手伝うかどうかは、僕の判断に委ねられている。そのスカウトで訪れたみたいだった。さしずめワニの缶詰はお近づきの印だろう。

そんなことをしなくても僕は手伝うのに。よろこんでだ。この事業所で僕に与えられたミッションは楽しく過ごし続けること。すこしめんどくさいと思ってしまったが、このミッションをクリアするためにも、手伝い業務に就くことは必須と思われる。断る理由は無かった。

他にも数人が僕の居室に訪れてくれたが、皆おもしろい人だった。結局、僕がおもてなしを受けていたのである。お菓子や本を持ってきてくれる人も多かった。

僕はまだ20代中頃。頼り甲斐のないオーラも出ている。周りは歳上。ここでも気を使ってもらう側の人だった。その恩を返すためにも、ここで楽しく生きていく。こんなに楽しい仕事場でいいのであろうか。あいかわらず、その問いだけが怖いのである。


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