変わり続ける往復路

一人暮らしには慣れた。アパートの一室は僕の巣である。すこし広い1LDK。けれども田舎は安い。加えて会社の家賃補助は半額支給。給料は低いが、いい暮らしをさせてもらっているわけだ。

週末は実家へ帰ることも多い。草野球チームに所属しているからだ。キャプテンが休むことは許されないだろう。だから土曜の朝はロングドライブと決まっている。

そんな日の朝は早い。ドライブが楽しみだからだ。朝食も摂らずに車へ乗り込む。けれども直ぐに実家は目指さない。アパート近くの大きな池を一周してからだ。日課となっている。出かけるときに一周。仕事終わりに一周。なにもないけど一周。けれども無理に課しているわけではない。目的はない。おそらくメリットは心情的なもの。なんとなく周りたくなる池ということだ。

それが終わっても実家はまだ目指さない。吉野家へ寄る。朝は早いが24時間営業だ。とても助かる。割増料金を払いたいくらいだ。頼むものは決まっている。早朝から特盛。ロングドライブは万全の体調で臨みたい。空腹は敵だ。睡魔を呼び寄せる存在でもある。そこを潰すのに特盛は最適。あとはコンビニに寄ってコーヒーを調達すれば準備は完璧であろう。

変わり続ける往復路。その日その日で選ぶ道は様々だ。オーソドックスな国道を辿る経路もあれば、高速を乗り継ぐ方法もある。ひたすら長い峠道、曲がりくねった抜道、風光明媚な観光ルート、その他いろいろ。多種多様。選び放題だ。

選ぶポイントは決まっていない。なんとなくで選んでいる。やはりオーソドックスな国道を辿る経路を選ぶことが多い。一つ目の峠を越えたら、後はなだらかな下り道だ。距離はあるがずっと直進。たまに信号もあるが、あまり引っかからない。

主要国道まで出るとやっと左折だ。そこからも直進が続く。だがしかし道路が渓谷に差し掛かるとカーブは多くなる。ハンドル操作も忙しい。そんな渓谷を越え、いくつかの街を通り抜けたら、途中からは県道に入る。そこからは右左折を繰り返すが、慣れたものですべてを体が覚えている。そこを過ぎれば見慣れた街が見えて来る。そう、すでに実家の近くというわけだ。

移動を早く済ましたいときは高速を乗り継ぐ方法をとっている。だがお金が掛かるのであまり使わない。それ以外の道は本当に気まぐれで選んでいる。比率的には5割ほどがオーソドックス外の道。つまり移動も楽しませてもらっているわけだ。実家への往復路は変わり続けるのである。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。以前は変わり続ける人や世界に対して、反発するように変わらないことを望んでいた。「変わらない通勤路」がそうだった。だが今は変わることを求めている。

そう、僕自身も変わったのだ。けれども、あのときの僕の気持ちを忘れたわけではない。反発したい気持ちも分かる。だが今になって思えば、反発すること自体が捕らわれている証拠だった。

反発は否定しない。何かを生み出す原動力にもなるからだ。けれどもそれは人の業だ。人の本質に由来する想いであり行動だろう。ただ、人の業から離れた自分で在りたいのなら、反発もするべきではない。いや、そう思い行動することもまた人の業。どうあがいても、それから距離を置くことなど不可能なのである。

それでも抵抗したいのであれば、それを深く知ることに尽力すればいい。そして理解するのだ。理解という言葉は『理(ことわり)を解(げ)する』と読むこともできる。つまり理解するということは、本質を解体することにも繋がっていると思う。

淡々と理解を進めればいい。文面を覚えても意味はない。人の話を鵜呑みにすることも然り。そうではなく自分に問い続けるのだ。さすれば自身の固定された観念にも気付くだろう。それが唯一の可能な抵抗なのだと思う。ささやかだけれども。

今日も往復路は変わり続ける。


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