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聞こえている音、見えている映像、皮膚が感じている感覚、体の内部の感覚、考えていること、これらの実体に違いはあるのか?

夜、明かりを消した部屋で布団の上に結跏趺坐(けっかふざ)で座り、肩・首・肩甲骨のストレッチを日課にしている。ストレッチをしながら五感から入ってくる刺激に意識を集中していた。

家の前の道を走る車の音が聞こえてきた。

そのときふと思った。

聞こえている音ってなんだろう?
聞こえているってなんだろう?

“音”が“聞こえている”の両方ともの実体が、そもそもつかみどころがない。

目を閉じていても、見えている暗闇やチカチカしたものや明暗のグラデーション。この見えていると思っている、この見えているものはなんなんだろう?
どこにあるのか?そこにあるの“そこ”とは、、、。

見えているものにも実体はない。

見えているものはどこにあるのか?
聞こえているものはどこにあるのか?
ストレッチで感じている身体はどこにあるのか?
これらを考えている思考はどこにあるのか?

感じるほど、観察するほど、それらを区別しているその境目が曖昧になってくる。
音と映像と身体感覚と思考(感情)は脳の中に存在していて、脳はそれらを分類する。

オレはそれを当たり前のように信じる。
つかみどころのない。どこに存在しているのかわからない。

確かにそれはそこに存在するのだろうが、次の瞬間のそれは前のそれとは違うそれである。

音を音として認識して映像と分けて感じているが、本当だろうか?

世の中には音に色を見たり、匂いを感じたり、数字が見えたりする人がいる。共感覚(シナスタジア)という。

オレには共感覚はないが、音を音として、映像を映像として、触覚を触覚として、思考を思考として当たり前のように分けるていることに、確信が持てなくなった。

なぜ音を音として感じるのか。それは本当なのか。実体なんてないのに、なぜ当たり前のように分けれるのか。

なんか変な世界に入り込んだ気分だ。

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