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バターロールの幽霊

先週から、僕の机の上にずっとバターロールがひとつ置いてある。

朝も昼も夜も、24時間ずっとバターロールはぽつんとそこにある。決して自己主張しすぎることなく、しかし確かな存在感を放ちながら。

でも、おかしいのだ。
このバターロールは二週間ほど前、たしかに捨てたはずなのだ。僕自信のこの手で。


5月の始めごろ、スーパーのお勤め品コーナーで見つけた6個入りのバターロール。
普段はあまり買う習慣はないのだが、気まぐれに手に取った。3割引にもなっていたし、久しぶりに食べるのも良いだろうと思った。

100円程度のイチゴジャムも一緒に買った。僕はビジネスホテルの無料朝食で食べるような、パンの食べ方が大好きなのだ。

ほんのり焼き色の付いたバターロール。ナイフでマーガリンをひとすくいする。マーガリンが溶けきる前にイチゴジャムをのせてばくっと大口で食べる。

マーガリンの塊の罪悪感とイチゴの甘酸っぱさをバターロールが包み込む。ああ、思い出すだけでよだれが出てしまいそうだ。

そんなわけで珍しくバターロールを買ってきたものの、3日で飽きてしまった。なるほど、あれは毎日やるものではないのだな、ひとつ勉強になったな、などと思いながら、中途半端になったバターロールをキッチンの電子レンジの上に置いた。


それからしばらくした後、すっかりバターロールの存在を忘れた頃に、僕はバターロールと再会した。

バターロールはすっかり変色し、ところどころ白や緑のふわふわしたものがついていた。
しまった。もったいないことしたな、と思ったときには時既に遅し。もう捨てる以外の選択肢はなかった。


ところで、ここのところ僕はとある本を読んでいた。「物質に宿る精神」についての本で、古代のアニミズム信仰や付喪神の伝説、萬年寺のお菊人形や米コネチカット州のアナベル人形等が紹介されていた。

そういえば、と自分も幼い頃に大切にしていたぬいぐるみが気づかぬうちに自分の傍らにあった事だったり、なんとなくずっと視線を感じるようなことがあったことを連想する。

あれは幼さゆえの思い込みだったのだろうが、そのせいで今も玩具やフィギュアを捨てたり売ったりするときに若干の罪悪感を覚えたりする。

僕が知らぬだけで、実は某フルCGアニメーション映画のように、おもちゃ達にはおもちゃ達だけの世界があり、僕が彼らを手放そうものなら、そこには映画一本出来るようなドラマがあるのでは。

しかし、彼らに愛されているならまだましだ。
もしも彼らに恨まれていたとしたら?手放す度に彼らの激しい憎悪を受けていたとしたら?

そうだとしたら、いつか呪い殺されてしまってもおかしくない。


ああ、いかん。思考がおかしな方向に向かっている。水でも飲んで気分を変えよう。
そう思い、キッチンに向かう。

コップを手に取り、蛇口をひねる。思いの外勢い良く放たれた水に少し慌てながら蛇口を閉め、ぐいっと水を飲む。

その時、僕の視界にバターロールが飛び込んできた。
なにもない机の上にぽつんと置かれた、なんの変哲もないバターロール。

おかしい。あれ以来バターロールは買ってきていないし、さっきまでそこには何もなかったはずだ。
誰かが置いた?いや、僕はひとり暮らしだ。そんなはずはない。

なぜだか無性に気になってしまって、バターロールに手を伸ばす。

バターロールをつかむ。つかんだ、はずだった。
僕の右手は空をつかんだ。


そこにあるはずのバターロールがつかめない。何度も同じ動作を繰り返す。しかしやはり僕の右手は何もつかまない。それどころか、何かに触れた感覚すらない。

混乱してしまいそうな出来事だったが、僕は不思議と冷静だった。
そうか。バターロールが。あのバターロールが化けて出たのだ。食べられず放置されたバターロールが魂を持ったのだ。

これは人間に食べられるという使命を全うせず、忘れ去られ、ひっそりと黴に蝕まれながら、僕に対する恨みを募らせ、最後には捨てられてしまったバターロールの怨念だ。

まさかおもちゃではなくバターロールに祟られるとは。なんとも情けのない話ではないか。

そしてこれが、冒頭にご紹介したバターロール、という訳である。


バターロールは僕に害を与える訳でもなく、ただずっとそこにある。
しかし、「忘れられてたまるか」といわんばかりの存在感で、ずっとそこにあり続ける。

念のため、その手の話に詳しい知人に相談してみたが、バターロールの幽霊の話はさすがに聞いたことがないと匙を投げられた。
試しに塩をかけてみたこともあったが、塩バターロールになるだけだった。


そういうわけで今では追い払うことも成仏させる事もあきらめ、僕はバターロールの幽霊と共に生活をしている。
幸い、食事をとるときに少し邪魔という程度にしか不自由していない。
むしろ、こいつの存在のお陰で、食べかけの食品を忘れて駄目にしてしまうことがなくなった。

「いつかはいなくなるだろう」と、間の抜けた幽霊を眺めながら、僕はインスタントラーメンをすすった。

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