見出し画像

劇的アフターがなくてもいい

また、人間である以上、誰だって自分の才能をのばし、その才能に応じて働いてゆけるのが本当なのに、そうでない場合があるから、人間はそれを苦しいと感じ、やり切れなく思うのだ。
 人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは、人間がもともと、憎みあったり敵対しあったりすべきものではないからだ。また、元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ。
(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」)

生活は、大なり小なり想定の範囲内、自分の言動が波及する圏内で進んでいく。

時に圧倒的な暴力性をもった他者がその途上に現れたとき、私たちの生活はいとも簡単に壊れてしまうことがある。けれども、
概ねこれまで歩いてきた道の放物線上に進んでいくのが私たちの日常だ。

私の信条(っていうほど大げさなものではないが) は、
自然であること、そして持続可能であること。このふたつ。

儚いものは自然の中にたくさんある。睡蓮の花、人の心。
そういうものが、好きだ。と思う。

新しい言葉に触れるとき、その言葉を生み出した水の流れに思いを馳せる。
深い流れ、急な流れ、同じ人でも一瞬たりとも同じ流れは起こらない。
そういうものが、心を動かし、動揺させ、時に戦慄させもする。

そして、他者のそれを無自覚に壊し、あたかもそれが自分の自然であるかのように振る舞う人に遭う。そんなとき、いつも文学者の言葉を思い出す。

卵と壁。

私は常に、卵の側に立つ人間でありたい。
http://www.geocities.jp/ol_intelligence/wallandegg.html

unfairな状態が持続している状況は、耐え難い痛みをもたらす。にもかかわらず、この一方的な力が原始より生き物とともに在ったのはなぜなのか。
哲学者にも救世主にもなれない1本の木は、ずっと考え続けたままだ。

最後まで読んでいただき、うれしいです。 サポートをいただいたら、本か、ちょっといい飲みもの代に充てたいとおもいます。