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2021年1-3月の読書記録

3か月に1回、読んだ本をふりかえるnoteです。といいつつ、冊数が増えてきたので2か月に1回に変えようか迷っている。まあいいか。

1-3月はぜんぶで19冊。

目録

楽園のカンヴァス(原田マハ)
100のモノが語る世界の歴史 3(ニール・マクレガー)
予想どおりに不合理(ダン・アリエリー)
かぐや姫と王権神話 『竹取物語』・天皇・火山神話(保立道久)
葉隠 2(山本常朝)
モモ(ミヒャエル・エンデ)
JR上野駅公園口(柳美里)
意志と表象としての世界 1(ショーペンハウアー)
ミヒャエル・エンデ 『モモ』(100分de名著)
百年と一日(柴崎友香)
本を抱えて会いに行く(橋本亮二)
全体主義の起原 3(ハンナ・アーレント)
アメリカーナ(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)
赤い砂を蹴る(石原燃)
愛と欲望の雑談(雨宮まみ・岸政彦)
人新世の「資本論」(斎藤幸平)
レヴィ=ストロース 夜と音楽(今福龍太)
「差別はいけない」とみんないうけれど。(綿野恵太)
ギリシャ語の時間(ハン・ガン)

今年の読書目標、もとい新年の抱負

今年の目標は「読みたい本を、読みたいときに読む」にした。

昨年は読みたい本をつぎつぎに買っていたので(今も)、積読を量産してしまい、なんだか読書に対する心理的なハードルも上がってしまった。図書館から借りていた重めの本がずっと心にのしかかっていて、すこし停滞ぎみだったのが、今回それを読み終わってから積読の消化スピードがぐっと上がった。

「読みたい本を、読みたいときに読む」は、かならずしも読書だけについての姿勢ではなく、日常のさまざまな行動に対する自戒でもある。ちょうどnote社に入社して1年となり、いずれふりかえり(というかそもそも入社エントリを書いていないのでそれに類するもの)は書くとして笑、新しい仕事や環境に身をなじませるのに、心配しすぎたり頭でっかちに考えすぎたりしていたきらいがある。

いいと感じたことをすぐ実行できる人にたくさん出会ったことはとても大きく、読書以外にもそういう身軽さを応用できたらいいなと思う。

定量的な目標としては年間で最低60冊、いけたら80冊ということにした。

小説のたのしみ

読書好きが多い環境に影響をうけて、昨年から小説もかなり読むようになった。今回も半分くらいは小説。

だれの言葉だったか忘れたけど「小説は一冊の中の一文でも印象に残ればそれでいい」という考え方には心から同感。今回印象に残った一節はこれ。

雪が空から降りてくる沈黙なら、雨は空から落ちてくる終わりのない長い文章なのかもしれない。単語たちが敷石に、コンクリートの建物の屋上に、黒い水たまりに落ちる。はね上がる。
(ハン・ガン『ギリシャ語の時間』より)

つらい出来事によって言葉を失った女と、徐々に視力の衰える病にかかった男の物語。古代ギリシャ語という、もはやだれも日常で使わない言語を接点に、声にならない言葉を交わすふたりが描かれる。

繊細でありながら鋭利な、ハン・ガンの描写がよかった。読んでいるこちらの眼の解像度が上がって、ちょっと視界が変わってくるような気がしてくるから不思議だ。

本屋をまわる

昔から本屋という場所が好きだ。旅行もすっかりごぶさたなので週末は本屋ばかりまわっている。特定のお店ではなく、散歩の途中で目に入った本屋にはとりあえず全部入る。大きいチェーンの本屋に滞在するのもいいけど、個人経営のお店や古本屋を半日かけてまわるのもすき。

本屋の棚の前に立っていると、あまりに読んでいない本が多すぎて気が遠くなる。すべてを読む必要も欲求もないのだけど、自分がまだ知らない、これから知ることもない世界が、たかが2−3センチのそれぞれの厚みのなかにあると思うとくらっとする。

だから今日もせっせと部屋の本を増やしていく。

「差別はいけない」とみんないうけれど。

今季一冊えらぶとしたら、これ。
多様性という言葉にふれない日はないといってもいい。個性を尊重するということが当たり前になっているのはよいことで、つらい思いをしている人にスポットが当たること自体は、なんだか正しい方向に進んでいる感じがするもの。

けれどこれまでの自分をふりかえってみて、いろんなひとがいますね、と口にだすところで終わってしまっていなかったか。社会が進んでいる雰囲気だけで満足していなかったか。「差別的なことを言う人」と思っている相手の言葉は、聞くに値しないこととして単に距離をおいていただけではなかったか。

先日社内で、「アンコンシャス・バイアス(無意識バイアス)」にかんする研修を受けた。性別や年齢、国籍について起こりうる差別の、わかりやすい例えがいくつか提示される。「いや、これは差別でしょ」と思うところまではよかったけど、バイアスのほとんどは当人の気づかないところで起こっているという、本質的な問題を置き去りにしていた。

だれかの差別的な発言が炎上するたびに、狭い世界で生きてるからだ、などと安易にラベリングしがちだったなと思う。そうして「理解しあえないひとたち」と距離をおくことで自分がただしい側にいる、と安住していた。

例のアンコンシャス・バイアスの研修で理解したのは、「自分は差別をしない(ように気をつけている)」という無意識のバイアスに陥っていて、完全に「ふりだし」にもどった状態であったということ。

でも「自分たちは差別をしない」という主張をする人だって、集まればときに暴力的な集団になる。『「差別はいけない」とみんないうけれど。』にたびたび登場する「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない」というフレーズにも、その意味は反映されている。

「多様性」と同じくらいコロナ禍でよく耳にした「分断」や、うっすら冷笑的なニュアンスを感じる「ポリコレ」という言葉。たとえば、特定の集団を差別する言説が合理性の皮をかぶってあらわれたとき、どう考えたらいいのか。

民主主義と自由主義はときに対立する。集団の同質性をもとめるアイデンティティ・ポリティクスと、すべての人員の平等をもとめるシティズンシップの性質を分析するこの本で、差別にかんする議論のざっくりした全体像をようやく把握できた気がした。

表紙と裏表紙に書いてある文章がこの本の骨子を端的に表明している。この文章に少しでも気になる部分があれば、読んで損はないなと思う。

my favorite bookstore

小さい本屋だと、スペースの問題で置ける本に限りがある。日本人が書いた本はどのお店にもある程度置いてあるけれど、外国の翻訳本は相対的に少なく、ジュンク堂くらいの大きいお店に行かないとトレンドもわからない(ジュンク堂は大好きです)

なので、翻訳本を比較的多めに置いてる本屋はなんだか信頼している。最近よく見かけるようになった韓国発の小説や、これまで世界のメジャーではなかったアフリカ出身の書き手の本に、ここのところ惹かれる。今回読んだアディーチェの『アメリカーナ』も、文庫版がでたと知ってすぐに買った。めちゃくちゃよかった。

吉祥寺の「百年」は、そういった翻訳ものもけっこう置いているので、近くを通るたびに寄っている。古本も扱っているが、短期間に棚の中身がけっこう入れ替わっている(ように見える)ので飽きない。

店主や店員の選書眼ともいうべきものがいかんなく発揮されていることがわかるお店はたのしい。百年も例にもれず。

本屋はメディアだと思う。別に本にかぎらないけど、あるモノをどう解釈するか、何と何をひもづけて認識しているか、はその人の通ってきた環境や体験によって直接、間接に形づくられて、個性になっていく。

選ばれた一冊一冊の並びや、小さい文字で書き込まれたPOPに、その人の大事にしているものが垣間見えると、なんだかうれしい。

最後まで読んでいただき、うれしいです。 サポートをいただいたら、本か、ちょっといい飲みもの代に充てたいとおもいます。