深海より愛をこめて ④

【小説】

 

「ふじさわー、こっちで魚獲ろうぜ!」

 えーと、彼は…中嶋? あれっ、河原でなにやっていたんだっけ? まわりのみんなが胸に〈2―B〉と書かれたジャージを着ている。そうか、僕らは遠足に来ていたんだ。

「なにボンヤリしてんだよ!」

 中嶋に肩を叩かれてハッとする。ほんと、なにをしていたんだろう。川の流れを見ているとつい意識が飛んじゃうんだよな。
 中嶋に促されて僕は靴と靴下を脱いで川の浅瀬に足を入れる。くぅー、6月なのに結構冷たいな。

「ほら、魚! そっち行ったから」

 中腰で両手を流れに入れて魚が泳いでくるのを待つ。焦って掴みにいくと、魚はするりと向きを変える。

「藤沢、おまえ、動き大き過ぎ! こういうときは自分が木とか石になったつもりで気配を消して待つんだよ」

 木とか石。気配を消す。あれ? なんだっけ? 前にも気配を消そうとしたことがある? 人影、足音、気配を消す…。

〈行った!〉中嶋が小声で伝える。僕の手に触れそうなほど近づいた魚を素早く右手で掴む。

「やった! 掴まえたよ!」

「おお! すげー、掴まえた!」

「で、これ、どーする?」

「焼いて食べるに決まってるじゃん」

 あ、食べるのか。魚は僕の手から逃れようと体をクネクネ動かす。

「んー、オレ、食いたくないかも」

「え……そう言われれば、オレも食いたくないな」

「じゃあ、逃がすよ」

 右手のなかで暴れる魚を水面にそっと離す。魚は急いで下流へと泳いでいく。

「きゃっ」と後ろのほうから女子の悲鳴があがる。振り返ると女の子の集団があり、その真ん中に担任の猿渡がいる。

「やだー、先生!」

 女子たちが騒いでいる。

「また、エロ猿だよ」

 中嶋がうんざりした顔で言う。また、なにか卑劣なことをしたのだろう。

 

 猿渡は今年の春にうちの中学に赴任してきて、僕らのクラスの担任になった。エロ猿はヤツのアダ名だ。いつもピチピチのジャージを履いて股関を盛りあがらせていて、なにかにつけ女子の体に触るのだ。
 もちろん、直接的に胸を触るとかそんな無茶はしない。けど、例えば女子が制服の胸ポケットに入れている生徒手帳をひょいっと引き抜いて、パラパラとめくってはそれをまたポケットに戻すのだ。それからすぐに肩を組んできて、勝手に反対側の腕を揉む。これは男子にもするが、圧倒的に女子に対してのほうが多い。
 こうした卑劣な手口の被害者が続出し、もう誰も胸ポケットに生徒手帳を入れなくなったし、ヤツが近づいてくるとみんな背後にまわられないように気をつける。
 女子たちは、表向き「やだ、先生ー」とか笑ってごまかしているが、男子たちにはその本当のところはわからない。

「嫌に決まってるじゃない!」
 一度、仲のよい女の子から聞いたことがある。
「変態だよ、エロ猿。女子みんなで教頭に文句言おうかって話しているんだけど、アイツ、校長先生の親戚なんだって。だから、握りつぶされそうで…」

 だから僕は、次になにかあったときには直接文句を言ってやろうと思っていた。エロ猿をやり込めるそのシーンを何度も頭のなかでシミュレーションした。ヤツに女子たちの前で謝らせてやるんだ。そんな計画を友達にも話したけど、彼らはエロ猿のジャージの膨らみの大きさがナチュラルなのかスクランブルなのかの議論に夢中で、「女子が自分たちでなんとかするだろ」と言って賛同してくれない。唯一、同意してくれたのが中嶋だが、内申点への影響を考えて「一緒にはいる。でも、言うのは藤沢だからな」と頼りになりそうもない。

 

「ほんと、やめてよねー、猿渡」

 また、女子たちのほうで声があがる。
 僕は中嶋に目くばせをし、靴を履いて二人で女子の集団に近づいていく。
 心臓が一気にバクバクする。手が震えている気がしてギュっと掌を握りしめる。一歩、一歩、前にくり出す足が重く、まるで夢の中で歩くように地面に足が吸いつく。
 ヤツは女の子たちの表面的な冗談めかした口調を真に受けてニヤニヤしている。ふざけるな!お前のしていることは犯罪なんだ。彼女たちのほんとの気持ちをわかっていないんだ。いまから僕がお前にわからせてやる。

 僕らが近づくと、その雰囲気を察した女子たちが道を開ける。集団の中央にいるエロ猿が僕らを見る。そしてヤツの目の前へ…。

「藤沢と中嶋、どうした? 何かあったか?」

 エロ猿が笑いながら訊く。僕の視線はヤツの目ではなく胸のあたりをさ迷っている。拳をさらに強く握りしめて。

「なんだ、どうしたんだ?」

 僕らの尋常ではない様子にヤツが表情を変える。

「よし、ここで話にくければ、ほかに行こう」

 ヤツは二人の間に割って入り、僕らを両脇に抱えて林道のほうへと向かう。僕は足を引き摺るようにしてようやく歩いている。心臓が飛び出しそうだ。「藤沢たち、大丈夫かな」後ろから女子たちの声が聞こえる。

 

「さあ、ここならいいだろう。それで、なにが言いたい」

 人気のない林道の入口あたりに立ち止まり、ヤツが僕らを見おろす。
 僕はまだ目を見られずに俯いている。

「なんだ、なんだ、先生になんでも言ってみろ。藤沢、お前、クラス委員だろ。なにか言いたいことがあるならはっきり言え」

 そうなんだ。僕はクラス委員で、しかもそれはヤツの推薦によって決まったようなものなんだ。ヤツにしてみれば僕は子飼いの手下みたいなものなのだろう。

 僕が「あ」とか「う」とか言葉にならない音を発していると隣で中嶋の気配が変わった。

「先生、もう、女子の体に触らな◯◯◯◯◯……」

 ん? 中嶋? 見ると中嶋の口は話し続けているのに、声が消えている。
 そして、ヤツはそんな中嶋ではなく、僕を見ている。

「で、藤沢はオレがいやらしい気持ちでみんなに触れていると言うんだな?」

「そ、そうですよ。せ、先生は彼女たちの気持ちをまったく理解していない。みんな冗談ぽく返しているけど、ほ、ほんとうは嫌がっているんです」

 僕はしゃべりながら視線が下にさがる。目を見て言うことができない。

「お前がそれをなんでわかるんだ」

「それは、聞いたからです」

 ヤツの毛むくじゃらの腕を見る。ん? 毛むくじゃら?

「誰に聞いた?」

「それは……」

「誰に聞いたんタァ、キキー!」

 キキー? 顔をあげると、目の前に巨大な猿がいた。え? 隣を見ると中嶋の姿がない。逃げた? おい、中嶋! 勘弁してくれ!

 猿に変態したヤツは、歯を剥いて威嚇してみせ、キキー! キキー!と落ち着きなく僕の様子を窺っている。こ、恐い。走って逃げようか。でも、心のなかで誰かが〈逃げちゃダメだ〉と叫んでる。
 どうしたらいいんだ。僕のまわりをぐるぐるまわりながら、猿が威嚇する。
 闘わなきゃ。僕は武器になるものを探した。足下に手頃な石があった。そっとしゃがんでそれを右手に握る。猿がいまにも襲ってきそうなくらい、真っ赤になって怒ってる。
 僕は石を持った右手を空に突き出す。すると、雲に隠れていた太陽が顔を出し、サーと日が射した。
 その時、猿が僕をめがけ跳びかかってきた。僕は咄嗟に目をつむって右腕を振り下ろした。
 ガツン! 手応えがあった。

 攻撃の気配が消えて、そっと目を開けると、猿ではなく猿渡が頭から血を流してひざまづいていた。

「せ、先生、大丈夫ですか?」

 僕が近寄ると、先生は僕をチラッと見て、「ばかやろう」と言って笑顔をつくる。

「石で殴るやつがあるか! ヘタすりゃ死ぬぞ!」

「ごめんなさい」

「でも、お前の言いたいことはわかった。もう、触らない。オレが悪かった」

「先生、僕は先生に怪我をさせた……」

「このことは二人の秘密だ。その代わり、オレのいままでのことも、校長やほかの先生には言うな」

「はい。でも約束してください。もう二度と女子に触らないと。そうしたら言いません」

「ばかやろう、さっき言っただろう。二度と触らないよ」

「それから、そのジャージ……」……穿かないでください、と言いかけてやめた。アホな男子たちの研究材料にとっておこう。

 

 気づくと暗い水のなかにいた。

あれ? 寝てた?

「寝てたと言われれば寝てたかな。でも、寝てないと言われれば寝てない。で、どうだった? お猿さんは」

お猿さん? なんのこと?

「お猿さんとの対決テイク2のことよ。やーね、毎度忘れちゃうんだから、困った人ね」

猿との対決? テイク2?

 

 僕は天を仰いだ。そこにはひかりも風もない。
 ああ、そうか、ここは深海なんだ。僕は深海で人魚と話している。ばかな……。現実の世界は遥か頭上、海のうえだ。ここは、暗すぎる。

   

  

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