啓蟄
【小説】
わたしの名前はレティシア。日本人だ。
父も母も祖父も祖母も日本人で、わたしの知る限りにおいて、先祖に外国人はいない。
でも、もしかしたら、祖父母も知らない遠い昔、日本列島の遥か西の端の街で、レティシアという名につながる異国の人がわたしに、レティシア的遺伝子の欠片を残してくれたかもしれない。
レティシアという名は本名ではない。幼少期から思春期を駆け抜ける過程のなかで、友人の誰かが直感的にそう名づけたか、あるいは何かの映画の登場人物に眉の形が似ているねと、そんな微かな類似点からその役名を与えてくれたか、いずれにせよ、そのような由来とも言えないような些細なきっかけから、わたしはレティシアになった。
いまでは、友人、知人の誰もがわたしをレティシアと呼び、なかには「遠く異国の高貴な血を受け継いだ者」という物語を創作し、実の名と信じて疑わない人たちまでいる。
そうした人たちは午後のあいまいな時間に代官山のカフェテリアで開かれるお茶会で、《今日のレティシアさま》をテーマに語り合い、ありあまる時間を浪費している。
名前の話はここまでにしよう。語りすぎると賢明な読者の想像力を奪ってしまいかねない。
わたしがこの場で語りたかったことはふたつだ。
ひとつはわたしの書いた小説がとある出版社の新人賞を獲ったこと。
『 闇夜を飛ぶ』という題名で、ある敵と死ぬまで闘い続ける男の話を、荒れ果てた大地に宿営地を探し限界を超えて羽ばたき続ける鳥の話になぞらえた物語だ。
出版された本の帯にはこう書かれている。
「人は結局のところ、死ぬまで飛び続ける渡り鳥のようなものだ」
もうひとつの語りたかったことは、わたしと暮らしている愛する男の話だ。
彼は3年前に起きたある事件を機に、人が変わったように内に向かってしまった。もちろん仕事は続けているし、わたしに接する言動に愛を感じなくなったわけではない。ただ、彼の心のなかには彼しか入ることのできない小さな部屋があって、何かことあればすぐにでもそこに入り込んでしまうのだ。いや、逆だ。基本的に彼はそこに棲み、何かあれば現実の世界にひょこっと顔を出す。まるで冬眠中の熊が何か外の気配に気づき、穴蔵から鼻先だけを出して匂いを嗅いでみるように。
わたしは彼の傷の深さを知っている。
彼は闘い続けている。自分のために、わたしのために、世界のために。今も。
そして闘うたびに傷を負う。身体の傷は然るべき時間を経て癒える。しかし心の傷は完治することはない。いつまでもジクジクと心の床を湿らして、徐々に床板を腐らせてゆく。
乾いた風を心に送り込み、それを根治するためには、彼の場合、"あの闇"と闘い続け、失われた世界を取り戻すしかないのだ。
世界は闇に侵食され、〈ヒトの形をしたココロを持たぬモノ〉が増殖している。
「きみを守るために僕は闘うし、世界を救うためには誰かが闘わなければならないんだ」と彼は言う。
わたしにできるのは彼を見守り続けること。
春が近づいている。もうすこしで世界はあの穏やかで温かな光に包まれる。
(終)
※次のエピソードへ
※本作は、マガジン『闇との闘い!』に掲載した以下の作品の続編です。
『真昼の決闘』
『3分間の決闘』
『決闘!ヒーローショー』(全3回連載)
『ハイキックの少女(仮)』(全7回連載)
『再生』
tamito
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