忘れもの

【シークエンス】


いらっしゃいませ

ああさきほどのお客さん

そう忘れものをしたのですね

どこに置き忘れましたか

何をお忘れですか

何を忘れたのかがわからない?

それはこまりましたね

幸いほかにお客さんがいないので

わたしも一緒に探しましょう

では思い出してみましょうか

あなたはカウンターの端で飲んでいました

モヒートと赤ワインとぺルノーです

一時間と少しの間わたしと話もしました

何の話をしたかですって?

覚えていないのですか

右耳と左耳の役割の違いについてですよ

役割がどう違うか気になるって?

お客さんあなたが教えてくれたのですよ

いいですか右の耳で風の音を聴いて

左の耳で不確かな言葉を聞くのです

いえ確かな言葉なんてこの世界にはありません

あなたはきっぱりとそう言いました

わたしはホウと腑に落ちてあなたに尋ねた

ならば言葉なんて意味がありませんよね?

そうしたらお客さんあなた

すべての言葉は試されていると

詩人のようなことをわたしに言ったのです

わたしはお客さんに職業なんて尋ねませんが

あなたは詩人か物書きの類いですよね

なに自分の生業がわからないと

まあ仕事なんて現を過ごす手段にすぎず

どうでもいいことですからね

ところで思い出しましたか忘れもの

そうさっぱり忘れてしまったのですね

みんなそうして忘れていくのです

怒りや哀しみや淋しさや恐れや

もしまた忘れたいときはいつでも

いつでもこの店に寄ってください

ではお気をつけてよい夜をお過ごしください

わたしは迷子の詩人を送り出し

彼の忘れた恐れをそっと拾いあげ

マッチ棒を擦って灰皿のうえで燃やす


tamito

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