欠けた月 前篇

【小説】


朝、目が覚めたときから頭が重い。

昨夜確認した天気図からは、ここまで気圧が低くなるとは思わなかった。窓の外には灰色の雲が重く低く垂れこめている。

極端な気圧の変動に弱いことは、小学校5年生で気づいた。

東京湾の真ん中に新しく建った高層タワーへ課外授業で行き、世界最速のエレベーターに乗ったとき、割れるような頭の痛みとともに、大量に鼻血が流れ、僕は倒れた。

医者は、三半規管の構造に異常があることを指摘し、飛行機には乗れないと断言した。もし飛行機や宇宙(ソト)へ行く船に乗るようならば、手術が必要になるという。

両親は高校を卒業するまでには手術をするように勧めるが、僕は今のところその必要は感じていない。

ただ、台風のときや今日のような気圧の谷間で高低差が激しい日にはうんざりさせられる。

こんな日はたぶん、水原月子は学校を休むだろう。

僕と同じように水原月子も三半規管に異常がある。それどころか温度差や直射日光、感染病にも極端に弱い。


彼女は入学式の日から、全校生徒の注目を浴びた。

講堂に整列した新入生のなかで、女子からは頭ひとつ抜き出て、男子でも高い部類に入るほど身長があった上、彼女の瞳は青かった。

だから式典で並んだときから皆が彼女を興味深く見上げたし、そんななかで、彼女は校長先生の話の途中、貧血で倒れた。

後ろに立っていた女子が短い悲鳴を上げ、彼女のまわりでざわめきが波紋のように広がった。

講堂の床に倒れた彼女は、式に出席していた父親と体育教師に支えられて保健室に運ばれたが、結局、救急車が迎えに来て、そのまま病院に入院した。

そうして水原月子の名前は、入学初日から全校生徒が知るところとなった。



僕が彼女と初めて話をしたのは高校2年の秋だった。

修学旅行の行き先が海外で、飛行機に乗れない僕と彼女は、ふたりだけで1週間もの間、特別授業を受けた。

正規のプログラムではないので教師たちもやる気がなく、ほとんどが課題を与えられての自習時間だった。

僕らは教室の真ん中辺りに、間にひとつ席を空けて座らされ、初日、二日目とほとんど話をすることなく過ごした。

三日目も変わらず、ふたりとも黙って自習をしていたが、午後になって状況が変化した。

昼食を終え、5限目の途中で嫌な予感がしはじめた。気温が徐々に上昇して窓の外が暗くなっていった。

僕はこめかみを指で押さえ、重い頭をゆっくりと振り水原月子のほうを向くと、彼女は机に伏していた。

「大丈夫?」と声をかけようとした矢先、それを拒絶するかのように苦しそうに大きな声で彼女は呻き、続けて「ハヅキ、助けて」と震える声で呟いた。

「大丈夫?いま先生を呼んでくるから」

と今度は声をかけ、席を立とうとしたときにいきなり雷が落ちた。

近い。僕は一瞬怯み、あげかけた腰が椅子にすとんと戻った。

窓の外に目をやると、空の底が抜けたかのように大粒の雨が大量に降ってきた。

雨は開けていた窓から教室内に吹き込み、僕は窓を閉めに走った。すべての窓を閉めて振り返ると、彼女は机に伏した状態から半身を起こし、両手で頭を抱えていた。

近づいてもう一度「大丈夫?」と尋ねると、彼女はそのままの姿勢で、「少し良くなった」と小さな声で言った。

そう言えば、僕のこめかみの痛みも治まっている。どしゃ降りが気圧を逃がしてくれたようだ。

「一応、先生を呼んでくるね」と言うと、彼女は少しだけ首を振って応えた。

「もう少しで治まるから、呼ばないで」と絞り出すような声で言った。

体調面でのトラブルが多い彼女は、おそらく先生にあまり迷惑をかけたくないのだろうと僕は察し、しばらく様子を見ようと席に戻った。

「じゃあ、どうしても苦しかったら先生を呼ぶから、いつでも言って」

「・・・」

無言で右肩が「No」といっている。

どうやら思ったよりも頑固なようだ。

僕は彼女が回復するまでの時間を、雨を眺めながら過ごした。



「私のこと知ってるよね」

20分ほど経ち、彼女が突然口を開いた。

たぶん、あのことを言っているのだ。

「うん、噂を聞いた」

彼女は長くきれいな指で顔を丁寧に洗うように擦った。

「もうここに来て1年半過ぎた。でも体がなかなか慣れてくれない。友達もまだここに来ることができない。ここで月生まれの人間は私ひとりなんだ」

ひとりごとでも呟くかのように抑えたトーンで彼女は言った。僕は言葉を探して少し間を空けてから返した。

「・・・うん、でも僕も気圧の変化に対応できないんだ。だから飛行機に乗れずにここにいる。水原さん、さっきつらかったのって気圧のせいだよね」

彼女はようやく顔をあげて僕を見た。ふたりきりで同じ教室にいながら、3日目にして僕らは初めて相手の顔をはっきりと見た。

「まだ来ることができない友達って、さっき呼んでたハヅキって人?」

彼女は青い目を少しだけ見開いて、左の眉に力を入れた。

「呼んでた?葉月を?」

「『ハヅキ、助けて』って、言ってた」

「・・・そう」

それから彼女はゆっくりと語りだした。


月で生まれた“仲間”が次々と亡くなっていったこと。医者から記号で呼ばれていたこと。葉月と地球で再会する約束をしたこと。地球がいかに素晴らしく、けれど自分にとっては住みにくい場所であること。そして、友達はできたけど独りであること。

僕のわずか17年の人生経験では想像もできないほどの深い孤独なのだろうことは理解できた。

「でも、人はみんな孤独なんだと思う。自我に目覚めて自分を知ろうとすれば、誰もが独りであることを意識する。確かに僕らの生まれ育った環境はずいぶんと違うけど、でもそれはまったく理解しあえないほどの高い壁ではないと思うんだ」

彼女はまっすぐ僕の目を見て話を聞いていた。青い瞳からは感情の色が読み取れなかった。

「あっ、なんか、偉そうなこと言っちゃったよね、ごめん」

僕は体温の上がった自分自身に照れて謝った。

彼女はようやくまっすぐな視線を外してくれ、小降りになった雨を見た。

「ありがとう」

僕は彼女に気づかれないように、ゆっくりとひとつ息を吐いた。


tamito


後篇へ

作品一覧へ

#小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?