少し先の未来で、海 ②

【小説】

 

 8時15分。通勤電車の乗車率は120パーセントくらいだろうか。つり革はすべて埋まっていて、わたしもこの不確かな乗り物のなかで、不覚にも今日も揺られている。

 今朝の夢のイメージが頭から離れない。あのトラックさえ出てこなければ、とても心地の良い夢だったのだ。
 雲ひとつないどこまでも青い空。打ち寄せる波。頬をなでる少し冷たい風。そして白黒の猫、クツシタ…。
 どこが現実とつながるのだろう。突然目の前に現れたトラックの顔は悪魔のようだった。つり上がった目には憎しみを湛え、がっしりとした顎はこの世界に在るものすべてを噛み砕きそうだった。
 あのトラックが街を歩くわたしをいきなり襲ってくるのだろうか。道を歩くときは十分に注意を払わなければ…。

 夢と現実のつながり――。
 ただ一度のことであれば、〈偶然〉で済ますことができるだろう。でも、わたしの場合、これまでに少なくとも10回以上は起きている。なんらかの因果関係がそこに必ずあるはずだ。
 ベッドで眠っている〈わたし〉をわたしは何度俯瞰しただろうか。意識が身体から抜け出すなんてことがほんとうにあるのだろうか。わたしのそれは現実なのだろうか。それとも脳内で作られたイメージなのだろうか――。

 

 12時45分。昼食を摂るためにオフィスビルから通りに出ると、ぽつぽつと雨が降りだしていた。
 目当てのカフェは通りの向こう側に渡って30メートルほどの距離だ。空は明るく、いまにも雲の切れ間から日が射してきそうだ。

 本降りにはならないだろう。
 そう予測して、ビルの前の信号が青に変わるのを待った。
 風が冷たい。午後から北風が関東平野に入り込み気温がさがると、朝のニュースは言っていた。コートを着てくればよかったかな、と両腕を抱きながら、わたしは道をゆく人たちをぼんやりと眺める。

 きれいな海だったな、と夢の断片が胸のあたりで反芻する。そう言えば、海にはしばらく行ってない。夢の中の海は春だったような気がする。頬にあたる風が少し冷たくて心地よかった。
〈春の海 〉と言葉を胸に焼きつける。

 信号が青に変わる。
 小走りでわたしは横断歩道へ飛び出す――。

 

 18時30分。今日は仕事が捗らなかった。集中できずにあちこちに思考が飛んで。近い締め切りの案件がなくてよかったけど、こんな日は胸の底がずっしりと重い。まっすぐ家に帰る気になれず、カフェに入りボリュームを大きめにして好きな曲を聴く。

 在りたい自分とそうあらざる自分が攻めぎあう。
 何を欲して何を捨てたいのだろうか。目の前のいまと少し先の未来に、わたしなりの幸せを得ることは容易い。でも、遠い先の未来に、深くうなずけるような自分でいられる自信なんてない。〈そのとき〉にわたしは笑っていられるだろうかと考えると、身体が震える。一つひとつの積み重ねでしかないことはわかっている。わかってはいるが、何かが滞るたびにわたしのなかで誰かが怯える。こんな風に自分で自分を縛って生きることに意味はない。衝動で、突き動かされる何かを頼りに生きてみたいとも思う。でも、一方でそんな自分じゃないことはわかりすぎるくらいわかっている。堂々巡りだ――。

 

 19時45分。駅前のスーパーで買い物をして、北風のなかを家までの道を歩く。
 月が明るい。今年初めの満月だ。
 ここに生まれたわたしたちは、地上からわずか38万キロの空に浮かぶ、この星を眺めて生きてきた。一万年前も、千年前も、百年前も、そして、いまも。
 わたしたちは夜空を見あげる。月や星に意味を見いだしては、自らを慰め、感謝し、ときに泣く。
 月に意識があるならば、ここにいる70億人全員と会話をしているのかな。それは神と何が違うのだろうか。ああ、やっぱり今日はダメな日だ――。

 視線を月から道に戻すと、そこに一匹の猫がいた。
 白黒の猫。クツシタ…?

 驚いて立ち止まるわたしを、猫はやけに自覚的な顔をして見ている。

 そして、こう言った。

「カエデ、大丈夫?」

 

(つづく)

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