9歳の彼女はそのとき

【小説】

 

 彼女はそのとき9歳で、産まれて間もない末の妹を背負い、6歳になるすぐ下の妹の手をひきながら、抱えきれないほどの荷を背負う父母のあとを懸命に歩いていた。

 少し歩を緩めれば、父母との距離は離れてゆく。自分ががんばらなければ、妹たちとともにこの地に置き去りになるかもしれない。彼女は弛みそうなおんぶ紐を右手でしっかりと握りしめ、左手で次女の手をひいて汗だくで歩いた。

 自分たちが産まれ育ったこの街を、なぜ離れなければならないのか。肩で息をしながら彼女は思った。この街での生活はとても楽しかったのだ。春にはそこここに自生する山菜を採り、夏には近くを流れる小川で現地の子と一緒にザリガニを釣った。秋には街を見おろす山に登り鮮やかな紅葉を楽しみ、厳しい冬にはストーブにかかる鍋においしそうな匂いが漂った。

 腕も足もつらい。背中の妹が急に成長したかのようにずしりと重い。休みたい。でも、疲れすぎて声を出すこともできない。

「お父さんとお母さんはたくさんの荷物を運ばなきゃいけないから、妹たちのことはおまえが面倒を見なさい」
「お姉ちゃんなんだからできるよね」

 家を出るときに父母に言われた。彼女は「はい」と答えるしかなかった。

 

「負けたんだから仕方ない」

 8月15日から数日経ち、父が口ぐせのようにいうようになった言葉。でも彼女の腑には落ちない。これまで仲よく遊んでいた現地の子たちや商店街のやさしいおじさんやおばさんが、あたしたちに冷たくするはずはない、と彼女は思う。このままこの街に住むことはできないのだろうか。見たこともない本土なんて行きたくない。だけど、もうすぐここにはアメリカの兵隊がやってきて、ひどい目にあわされると父母はいう。

 昨日、彼女は近所に住む同い年のソナという女の子と別れの挨拶をした。そのときも彼女は末の妹を背負っていた。小川のほとりに座り、夕日に染まる雲をふたりして見た。

「ソナちゃん、いままでありがとう。本土へ行っても忘れないから」

 彼女はゆっくりと身振りを添えて話した。ソナは目に涙を溜めてうんうんとうなずき、右手の人指し指を彼女に向け、次に自分に向けた。そして両手の人指し指を立て、腕を左右いっぱいに開いてからゆっくりと近づけた。

〈わたしたち、また、あえるよね〉

 片言の日本語でソナがいう。

「会えるよ、いつか絶対に会いに来るから」

 彼女がいうと、ソナは泣いているような笑っているような顔をして小指を立てた。

〈やくそく〉

 彼女はソナの小指に自分の小指を巻きつけた。

 翌朝、つまりは今朝早く、家を出るときにソナの家族が見送りにきた。ソナは両親に隠れるようにして彼女を見ていた。彼女も無言でソナを見た。親同士が挨拶を終えて歩きだす。でも彼女もソナも言葉を交わさない。そして彼女から目を反らし歩きだしたその刹那、ソナが叫んだ。

「けいちゃん!」

 彼女は振り返らなかった。

「けいちゃん!!」

 ソナは泣きながら叫び続けた。それでも彼女は振り返らなかった。口を真一文字に結び、怒ったような顔をして歩き続けた。振り返ることも言葉を発することもできなかった。喰い縛る口を少しでも開けば、泣き崩れてしまうだろうと思った。汗が頭巾の下を流れては、乾いた地面を濡らした。

 

 同じように港を目指す家族が先を急ぐように黙々と歩いていた。真夏の日差しが容赦なく降り注ぐ。もう、どのくらい歩いただろうか。時間の感覚がまるでない。「ひと休みしよう」とようやく父が言ったとき、彼女は倒れる寸前だった。妹たちから解放され、道にしゃがみこんだ。汗をたっぷりと吸った頭巾を剥ぎ取り、水筒の水を半ば飲み干した。それでも喉の乾きは治まらず、ぜーぜーと喉が鳴った。
 雲が流れて太陽が隠れ、風がそよいだ。「気持ちいい」まだ肩で息をしながら彼女は、地面に仰向けに転がった。
 もう一歩も動けない、と彼女は思ったが、父が立って「行くぞ」と声をかけると、なんとか立ち上がってまた妹たちを連れて歩きだした。

 いつまで歩くんだろう、朦朧とする意識のなかで、彼女は思った。

 ソナの顔をもう一度見ればよかった。やっぱり最後にソナに声をかければよかった。

 末の妹が背中で泣き続けている。耳の近くで大きな声で。泣き声をあげるたびに重さが堪える。そのたびに弛みそうなおんぶ紐をぎゅっと握りしめる。一方で、遅れそうになる6歳の次女の手を強く握る。前をゆく父母との距離が少しずつ開く。彼女は、がんばらなきゃ、と顔中を汗まみれにしながら、なんとかついてゆく。
 歩く人々の列が狭まって、大きな河にかかる橋のうえに出た。強い風が河に沿って吹いてゆく。風が汗を乾かし、疲れがいっぺんに取れた気がして立ち止まると、急に目の前が暗くなり身体がぐらりと揺れた。低い橋の欄干に倒れ込むようにうずくまり、握っていたおんぶ紐が弛み、するすると抜けた。
 気づくと背中にいたはずの妹が欄干の向こう側に辛うじて紐に絡まりぶら下がっている。彼女は気を失いそうになりながらも、それでも紐の片側を握りしめて欄干に乗り出すようにして足を踏ん張っている。

〈このままでは妹もあたしも落ちる〉

 次女が彼女の腰の辺りに抱きついて泣き叫ぶ。父母が大声で何かを言いながら前方から走ってくる。
〈もうだめだ。力が続かない〉
 彼女は、声も出せずに涙がこぼれた。
〈どうしよう〉
 最後の力で紐を握り直そうとしたそのとき、掴み損ねた。するすると逃げてゆく紐が生き物のように見えた。〈ああ、もう、だめだ〉と思ったときに、がっしりした腕が目の前に現れて紐を握った。
 妹は、落ちないようにゆっくりと引き上げられ、その腕に抱えられた。
 見あげると、軍服を着た知らない人だった。
「もう大丈夫だ。よくがんばったぞ」と言われ、彼女はホッとして、そのまま尻餅をついた。
 父母が奪い取るように妹を抱きかかえ、「ありがとうございます。ありがとうございます」と軍服の人に何度も頭を下げた。
 彼女は急に胸に何かがこみあげてきて、大きな声で泣き出した。怖かった。怖かった。つらかった。つらかった。よかった。よかった。こんな思いをしなければならなかったこと、ソナとの別れ、いろんな感情がこみあげてきて、わんわんと泣き続けた。顔中がぐしゃぐしゃになるほどに涙を流した。

 彼女たち一家を囲むように人垣ができていた。やがて、バラバラと皆が歩き始めてもなお、彼女は泣き続けていた。そして泣きながら自分自身に誓った。絶対に生き抜いてやる、そして絶対に幸せになってやる、と。9歳の彼女はそのとき。

 

 

tamito

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