本気の恋(沙映子)

【小説】


葉子から「賭けをしよう」と言われたとき、賭けごとなんて嫌だったけど「うん、いいよ」と答えてしまった。だって葉子はすごく楽しそうにしていたから。わたしは、溌剌として輝いている葉子を見るのが好きだった。

葉子はとてもきれいでスタイルも良くて、わたしの憧れの人だ。入学式の日に「沙映子ってかわいい名前だね。ねぇ、わたしたち友達にならない?」と言われて、突然すぎてかなり戸惑ったけどうれしかった。

そして、何をするにものんびりとしかできないわたしに、葉子はいろんな世界を見せてくれた。

クラスで一番華やかなグループに居場所をつくってくれ、わたしが輪から外れることがないようにいつだって気にとめてくれた。みんなで遊園地や花火大会にも行った。中学までの自分なら考えられないことだ。初めのうちはわたしにあまり話しかけてこなかったクラスメイトたちも、徐々に距離を縮めてくれるようになった。

わたしは少しずつ明るい性格になっていくように感じた。性格の明るいわたしは気分がよかった。朝、目覚めると「今日」という一日がわたしのことを待っていてくれた。夜の闇の暗さに安心していたそれまでのわたしは、深い意識の底で蓋をされた。

葉子は明るい性格になったわたしをよろこんでくれた。わたしは葉子が友達になってくれたことに本当に感謝した。

2年生になって葉子とクラスが分かれた。新しいクラスメイトとまた新たな関係を築いていかなければならなかった。でも一年前、葉子が導いてくれたことを思い出して、勇気を出して新しい友達をつくっていった。葉子がいなくても自分ひとりで居場所を確保できたことが誇らしかった。それを葉子にも誉めてもらいたかった。

昼休みには葉子が毎日「一緒に食べよ」と誘ってくれた。クラスが別々だから天気のいい日は屋上で、雨の日には家庭科室でふたりで食べた。

ある雨の日、葉子が珍しく機嫌が悪かった。

「どうしたの、何かあった?」と訊くわたしから目を背けて、葉子はお弁当の玉子焼きをひときれ口に運んだ。

「葉子?」少しドキドキしながら呼び掛けた。

玉子焼きを咀嚼してペットボトルのお茶で流し込んでから、葉子はようやくわたしを見た。

「沙映子、もしほかの人とお昼食べたかったら、それでもいいんだよ」

びっくりした。なぜそんなことを言うのか意味がわからなかった。

「なんで?なんでそんなことを言うの?」

たぶん、わたしは悲しい顔をしていたのだと思う。葉子は困ったように眉を寄せた。この一年、何度も見てきた表情だ。この顔のあとには必ず優しい笑顔がやってくるはずだ。

ところが葉子は笑顔を見せなかった。表情を強ばらせ、プイと横を向いた。

「沙映子のクラスの子たちが話してるのを聞いたんだ」

わたしのクラスの新しい友達が、葉子が毎日わたしを迎えにくることを不快に思っているという。そして「沙映子も本当は嫌なんじゃないかな」と語っていたらしい。

心外だった。葉子は親友でほかの友達はただの友達だ。そんなことで葉子と気持ちが行き違うくらいなら、ほかの友達なんていらない。葉子はそんなわたしの気持ちを聞いて、「わかった、わかった。わたしが悪かったよ」と言って笑顔をつくった。

「でも、せっかく新しい友達ができたんだから、そっちのつきあいも大事だよ。だからお昼を一緒に食べるのは、これからは晴れた日だけにしよう。わたしもクラスの連中とのつきあいがあるしさ」

わたしは心臓がひとまわり小さくなった気がした。また葉子が困った顔をしてわたしを見ている。葉子を困らせたくはなかった。わたしは悲しい顔をしないよう懸命に表情を変えたが、ちょっと怒ったふうにしか変えられなかった。

「わかった。じゃあ、そうしよ」

「そんな、口とがらせて怒らないの!たいしたことないでしょ」

それからわたしたちは晴れた日にだけ一緒にお昼を食べた。そして雨の日や曇りの日はそれぞれにクラスメイトと昼休みを過ごした。

でもすぐに梅雨の時期がやってきて、ふたりのお昼ごはんはめっきり回数が減った。初めのうちは雨を呪った。けど、だんだんと葉子と一緒にいない自分に慣れてきていた。

そうして夏がやってきた。わたしはクラスメイトと海に行ったり、市立図書館で一緒に勉強をするようになった。葉子とはたまにメールで状況を報告しあった。

暑い夏だった。わたしはやたらと喉が渇いていた。水分を摂るとはじから汗になって流れた。前は汗なんてめったにかかなかったのに。とにかく喉を潤すために、わたしはペットボトルの水を飲み続けた。

秋は赤トンボが運んできた。雲は高度を上げて空がひとまわりもふたまわりも大きくなった。わたしは自分のなかで何かが変化したことに気づいた。身のまわりのものが鮮明に見えた。前はどんな風に見えていたのだろう、と街角でふと立ち止まり首をかしげた。掌を見ると、感情線の溝が深くなった気がした。

そして2学期が始まると、クラスメイトたちが口々に「沙映子、なんか変わったね、大人っぽくなった」と言った。

新学期は初日から真っ青に晴れわたり、わたしは葉子と昼休みをともにした。いつも通り屋上に出てお弁当を広げ、夏休み中の出来事などを互いに話した。

わたしは葉子に「大人っぽくなった」と思われたくはなかった。だからわざとゆっくりと喋り、会話の主導権が葉子にいくようにした。葉子はこれまでと同じようにわたしに接してくれたが、私が感じている違和感に彼女が気づいていないはずがなかった。たぶん、葉子もこれまでの関係が壊れないよう細心の注意を払ってくれていたのだろう。

そして、9月も半ばになったある日、葉子が言った。

「ねぇ、賭けをしない?」

「賭け?」

「そう、賭け。どちらが先に『死んでもいい』と思えるほどの恋に落ちるか」

「えっ、恋?」

「そう、恋。それもそこら辺に転がっているようなヤツじゃないんだ。『もう、死んでもいい!!』と思えるくらいの激しくてせつない恋」

葉子は自分のアイデアに興奮していて、とても楽しそうに語った。

「そんなの無理だよ」というわたしにしばらく考えを巡らせると、葉子は少しトーンを落として説得する口調で言った。

「うん、だからこれは長い勝負なんだ。3年かかるかもしれないし、5年かかるかもしれない。もしかしたら10年かもしれない。だけど、これは大事なことなんだ」

「う~ん、そうかなあ。それで負けたら何をするの?」

負けることを前提にわたしは訊いた。

「・・・そうだな、負けたほうが勝ったほうに、一生尽くすんだ」

「えー、なにそれ、一生?」

「そう、一生。誠心誠意尽くす。じゃあ、賭け成立ね」

葉子はさも当然のように小指をつき出した。

「それってゆびきりだよ。賭けも約束と同じなのかな」

「いいから、早く」葉子は急かした。

わたしは「うん、わかった」と言って小指を差し出し、葉子の長い指に絡ませた。

それから葉子は人が変わったように積極的に男の子たちとつきあい、わたしにも恋することを勧めた。「これはわたしたちに与えられた使命なんだ」と葉子は言った。わたしは葉子のことが心配だった。そんな風に次々に男の子とつきあっていたら、いつかひどい目に合うような気がした。


そうして季節は流れ、わたしたちは高校を卒業した。わたしは葉子と同じ大学に進み、ともに東京に住むことになった。東京の街はせわしなくて、わたしは少し気後れした。葉子はいつもの葉子で、なにごとにつけ遅れがちのわたしを、いつも振り返りながら前を歩いた。

葉子とは同じ学科だったから、幸いにも同じクラスになれた。ある日、葉子がチラシを手にして「沙映子、ここに入ろう」と言った。チラシを見ると「サーフ&スノー、オールシーズンスポーツ同好会」と書いてある。わたしに最も向かないサークルだった。そして「こういうところにいい男がいるんだよ」と葉子に半ば強引に連れていかれ、ふたりして入会することになった。

サークルは予想通りひどいところだった。

新歓コンパと称した飲み会で、男の先輩からビールを勧められたけど、「未成年ですから」としっかりお断りした。葉子を見ると、テレビで見かけるホストみたいな格好をした人の隣ではしゃいでいる。それを見て隣の男女ふたりの先輩が小声で話しているのが聞こえた。

「あ~あ、あの子遊ばれちゃうよ」「可哀想だけど、ま、自業自得じゃない」

わたしは心配になって、葉子がトイレに立ったときに声をかけた。あの人に近づかないように説得しようとした。でも葉子は「大丈夫!心配しすぎなんだよ。それより沙映子もがんばりなよ」と言ってきかなかった。

結局、葉子はその先輩とふたりで会を抜け出した。わたしは追いかけるように店を出て、ふたりの後ろ姿に「葉子!」と声をかけた。葉子はチラと振り向いて小さく手を振り、そして雑踏に紛れて見えなくなった。

なんだか遠くなってしまった。大学に入ってますます葉子は変わってしまった。すべてはあの賭けのせいだ。もう賭けをやめたいと葉子に伝えよう。わたしは固く心に決めた。

翌日、わたしは早速葉子に提案した。

「ダメだよ。ゆびきりもしたんだから。なんでそんなこと言い出すかな~」葉子はわたしの提案に反対した。

「だって葉子、無理してない?」

「あ~、何言ってるんだろう、無理なんてしてないって。それより沙映子だよ。そろそろ彼をつくってもいいんじゃない?」

葉子は本当に変わってしまったのかもしれない。わたしは胸が押し潰されそうな気持ちになった。

葉子はその後も、気づくといつも別の男の子と一緒にいた。わたしはそれでも付かず離れずの距離を保ちつつ月日だけが流れ、わたしたちは大学2年の秋を迎えた。


その秋、わたしは初めて男の子の友達ができた。

彼とは同じクラスだったけど、ほとんど話をしたことがなかった。ある日、図書館で本を探していたときに同じ書棚の前で鉢合わせて、声をかけられた。

「その本読むの?」わたしが手にした小説を見て彼は訊いた。

「うん、読もうと思って」わたしは少し緊張して答えた。

「こっち読んだ?」彼は棚のなかの1冊を指差した。

「ううん、読んでない」

「こっちを先に読んだほうがいいよ。直接的な続編ではないけど、作家の気持ちが進化していく過程がわかる」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、そうする。教えてくれてありがとう」

わたしが言うと、彼は唐突に、なぜ葉子と一緒にいるのか、と訊いた。

わたしは戸惑いながらも「高校のときから友達だから」と答えたが、彼は「そうなんだ」とひとことだけ言って、その場から立ち去った。

それから図書館で彼に会うたびに話をした。ほとんどが文学の話だったが、それでも時折会話に混じるそれぞれの来し方が、互いの距離を縮めていった。

この人はいい人だ。好きになるかもしれない。わたしは男の人に対して、初めてそう感じた。そして、葉子のことを考えた。

彼は、わたしが抱える葉子との複雑な感情についても真剣に耳を傾け、そして自分では出せない答えをズバリと言ってくれた。わたしは徐々に彼といる時間が長くなっていった。

「沙映子、最近渡辺くんとよく一緒にいるよね」葉子から言われ、ドキリとした。

つきあっているのかと訊かれ、なぜかわたしはあたふたと要領を得ない返事をした。葉子には彼に対する気持ちを知られたくなかった。

翌日、葉子は勝手に彼と話をし、そして、わたしに彼とつきあうのをやめろと言った。

わたしは葉子との関係を彼に相談していたことを絶対に知られたくなかった。だから、会話の内容がそれに触れられていないことを知り、少し安心した。でも、腹立たしくて悲しくて、とてもショックだった。葉子は勝手にわたしとの関係をはっきりさせるよう彼に迫り、その上で、わたしが初めて好感を持った彼について「つきあうのはやめた方がいい」と言った。わたしは自分の感情が整理できずに、もともと切れそうで危うかった葉子との細い糸を自らの絶ち切ってしまった。

「葉子とはしばらく話したくない」

それから葉子は学校でわたしを避けるようになった。わたしはいつでも葉子を目の端に捉え、葉子のことだけを考えていた。

長い長い秋だった。葉子のまわりから友達が次々と去ってゆき、気がつくと彼女はいつもひとりでいた。わたしは何度も話しかけようとしたが、葉子は無表情のままわたしの横を通りすぎた。そんな日々がくりかえされ、わたしはみぞおちのあたりにぼんやりと重たいものをいつも抱えていた。そうして冬が訪れ、大学は休みに入った。

年内になんとか仲直りしたいと思った。葉子にメールを送ったが返事はなかった。電話をかけても声を聞くことはできなかった。直接、部屋を訪ねたが、ベルをならしてもノックをしても返事はなかった。念のため電気メーターを覗いてみるとカウンターは動いていた。

「葉子、いるんでしょ、開けて」何度もドアを叩いた。

嫌な予感がした。駅前にあるアパートの管理会社に駆け込み、鍵を開けてもらうよう頼んだ。管理会社の人はわたしの慌てた様子に何事かと思い、急いでアパートまで来てくれた。

ドアを開けると葉子が倒れていた。朦朧として泣きながらしきりと何かを言っていた。管理会社の人が救急車を呼んだ。わたしは葉子の体を揺さぶり名前を呼びかけた。

「沙映子、沙映子」葉子もわたしを呼んでいた。

わたしは救急車が着くまでの間、葉子の痩せた体を抱きしめながら、彼女のうわごとを聞いた。

「沙映子・・・わたし、沙映子がいないと・・・ダメみたいなんだ・・・ごめんね、沙映子・・・ごめんね」

泣きながら「ごめんね」をくりかえす葉子に、わたしは一生尽くそうと思った。そう、ふたりの賭けは葉子の勝ちだった。

でも、賭けなんて最初からする必要はなかったんだよ、葉子。わたしたちはずっと一緒だから。わたしは心のなかで葉子に語りかけた。


tamito

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