恋という鬱屈
【散文】
司馬遼太郎が徳川慶喜を描いた小説『最後の将軍』の中で、<恋という鬱屈>という表現が使われている。
「慶喜は、歳若きときからいろんな女性をあてがわれてきたから、恋という鬱屈を知らずに育った」という文脈だったと思う。
前後で〈恋〉について触れているわけでなく、言葉の意をことさらに強調・説明するでなく、文中でサラリと<恋という鬱屈>なんて言葉、凡人には使えないなあ、と読んだ当時感じ入った。
確かに俯瞰して人の心を覗けば、恋をしている状態って<鬱屈>以外の何者でもない。でも。
鬱屈だとわかっていながらも人は恋をする。どうしようもなく抑えようのない恋をする。あるいは細く長い糸のような恋をする。
恋をする、恋が叶うことを〈春が来る〉というのは、明確な四季を持つこの国特有の表現だろうか。
今年もくっきりと色鮮やかな春がやってきた。
tamito
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