深海より愛をこめて ⑩

【小説】

 

 世の中に100パーセント純粋な悪意は存在するのか。その答えはNOだと思っていた――。

 悪意には原因と結果があり、背景があり、適応がある。どんな悪意にも芽生えた原因が必ずどこかにあり、それを育んだ背景があり、適応せざるを得ない現実がある。その過程が苛烈であればあるほど純度の高い悪意の結晶が生成され、さも生まれついての完全体のように傍からは映る。6月6日の6時に闇から産まれ堕ちたダミアン・ソーンのように。
 ただ、生来の悪意は存在しなかったとしても、後天的な要素による純度100パーセントの完全体は、残念ながらこの世に存在する。それは己を蝕み続け、他者の痛みに自らが傷むことなく、己がつけた傷痕に平然と悪意の卵を産み付け、同胞を増殖させる。自らの存在を悪意の対象とさせるかたちで。

 悪意の連鎖――。

 それは、〈心の闇〉という言葉が人々に与える寛容の余地を残すような生易しいものではない。心のなかに〈ある〉のではなく、心の殻を喰い破り出た、闇そのものなのだ。それは、瞳孔の開きかた、色彩や明度、放たれる視線の温度に現れ、利器のような、あるいは鈍器のような、殺傷力の高い言葉に宿る。それは、 ヒトのかたちをしたココロを持たぬモノなのだ。

 その男は、ヒトのかたちをしたココロを持たぬモノだった。
 ある日、突然に僕らの前に現れ、破壊の限りをつくし、僕の信頼する仲間を薙ぎ倒すように次々と惨殺した。しかも卑劣な手口を使って――。
 そして僕自身も七発の銃弾を身体に撃ち込まれ、生死の境をさ迷った。
 生死の境とは文字通り生と死の境だ。川を挟んで此岸と彼岸を行き来し、不可思議な夢をたくさん見た。
 ある夢では、僕はライオンと二人きりで空飛ぶ絨毯に乗っていて、命懸けでそれと闘った。殺らなければ殺られる。ライオンの背に股がりその太い首を締めていると、その頭がくるり180度向きを変え、僕の手に噛みつこうとした。僕はその歯牙から逃れるように角度を変えながらライオンの首をギリギリと締めあげた。そして最後には大きな口から大量の泡を吹きながらそれは絶命した。僕は安堵感とともに掌に残る殺人の感触に怯えた。それはライオンではなく、その男だったのだ。
 また、ある夢では僕は深海にいて、きれいな顔をした人魚と自分の過去をやりなおしていた。高校時代のガールフレンドが抱えていた子供の頃の闇を開放させてあげ、中学時代のセクハラ教師を懲らしめ、僕が原因で地下鉄で命を落とした友人を救いに行った。
 人魚は僕のすべてを理解していて、母親のような、昔なじみのような、前世からの定めのような、慈愛に満ちた存在で、深い深い海の底にいた。そこで、僕を待っていたのだ。
 あれは、ほんとうに夢だったのだろうか。僕は夢のなかで夢を見ていたような、現実の世界に生じた時空の歪みに入り込んでしまったような、不思議な感覚に陥った。

 胡蝶の夢か――。

 いまの自分がリアルなのかフェイクなのか…。僕にはリアルだと言いきれる自信がなかった。
 ただ、ひとつだけ、わかっていることがある。
 それは、あの男と闘い、勝つことだ。大きな傷を負い後方部隊へと送られた末に去っていった仲間たちの無念、瀕死の状態から未だ回復しきれずにいる僕の矜持を取り戻すために……。これは、僕とヤツとの決闘なのだ。

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 その日僕は、会社の経営会議に参加していた。急なトラブル処理で外出しなければならない編集長の代理として、副編集長の僕が参加したのだ。
 会議は始まりからどんよりとした空気に包まれていた。
 ヤツは資金難だったこの会社に手を貸したファンド会社から送られてきた。何もわからないまま、数字だけを見て組織を解体し、市場を知らないままに、事業の舵をひとりできった。
 資金難に至ったこと、それを改善できなかったこと自体で旧経営陣の罪は重い。ただ、自分に意見をする者を徹底的に排除し、ただ頷くだけの者を重用し、ひとりで勝手に著しくリスクの高い事業を始め、後戻りできない状況まで来て、形上の責任者にそのすべてを押しつける――そんなことが繰り返され、ヤツのヒステリックでサディスティックで執拗な詰めに、何人もの社員が壊され、去っていった。さらに、当然の帰結として、会社の経営状況は以前よりも悪化していったのだ。

 そして、その会議のなかで、ヤツの矛先は僕に向けられた。
 まず、第一声で、僕の優秀な部下の能力を口汚く罵るように否定しながら、懐からリボルバーを取りだし、僕の左手の甲を砕いた。
 次に、部下の指導が行き届いていない、とニ発目が右胸に食い込んだ。
 それは検察官と裁判官と死刑執行官を兼ねた完全な独裁者だった。弁護士はいないし、自らを弁護しようにも、その場で処刑されてしまう。
 そうして、謂われのない罪で次々と断罪され、残る五発の銃弾を身体中に浴び、僕は一矢も報いることなく、敢えなく意識を失った――。

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 生死の境をさ迷うなかで、声を聞いた。それは僕にとって、とても温かく、優しく、懐かしい声だった。でも、声の主を僕は見ることもできなかった。ただ、握られた手の感触は僕がよく知っているはずのものだった。

「誰?」呻くように声を絞りだす。

「わたし。もう大丈夫だから」声の主が握る手に力をこめる。

 

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