深海より愛をこめて ⑪
【小説】
目を開けると視界を覆うひかりに包まれていて、僕は眩しくて思わず目を閉じる。
ここはどこだろう?
とても静かだ。
この溢れるような光はなんだろう。
そして、僕は、何をしていたのだろう。
どこかから話し声が聞こえる。
足音。
何かを引き摺る音。
そして、カーテンが引かれる音とともに光量が落ちる。
僕は再び、ゆっくりと目を開ける。
そこには彫刻のような顔立ちの女の人がいた。
「目が覚めた?」
僕は、声を失ったかのように言葉が出てこない。
「眩しそうな顔してたから、カーテン閉めたよ」
いや、しゃべれないんじゃない。何を言っていいか、わからないんだ。
「わたしのこと、わかる?」
それが、わからないんだ。きみは、誰?
「わたしは、レティシア。あなたの恋人、と言ってもいいかな」
と言ってもいいかな?って、どっちなの。それにレティシアって、見た目、日本人だけど。
「いま、〈レティシアって、日本人なのに〉とか、思ったよね」
えっ、テレパス?
「テレパスじゃないからね。あなたの思考パターンを把握しているだけ。それに初めて会ったときも、なんでレティシアなの?って、訊いたよね。だから、思い出すまで名前の由来は言わない。そのとき教えたから」
「じゃあ、やっぱり知ってる人なんだ」
「なんだ、声、出るじゃない」
「あっ」
彼女は、少し怒ったようなきれいな顔を崩して、楽しそうに笑った。とても親しみを感じる笑顔だ。
「やっぱり忘れているのね。自分のことはわかる?」
僕は初めて自分が誰かを考えた。ん?
「……あまり、自信がない」
「自分のことを忘れても、そういう言い回しは変わらないんだ」
「そう、なんだ……」
「あのね」
彼女はゆっくりと、僕に起こったことを少しずつ語りだした。
レティシアに導かれるように、僕は少しずつ思い出してゆく。記憶の回復は、誰も足を踏み入れない山奥に降りしきる秋の霧雨に似ている。僕は原生林がそびえる山のなかに立って、糸のように細かな雨に打たれている。衣服を湿らすように僕の頭のなかに記憶が染み入る。少しずつ、ゆっくりと。レティシアは時おりつまらない冗談を交えて語る。そのたびに雨足は強くなり、脳が活性化される。僕は山のなかで雨に濡れながらクスクスと笑う。ああ、僕はレティシアのことがとても大切だったんだ、と気づく。でも、自分のことに囚われすぎて、君を置き去りにしていた。
君と出会って互いに引き寄せられたこと、一緒に暮らし始めたこと、満月が微笑むモチーフのペンダントを買ったこと、そして、僕が闇に捕らわれてしまったこと。「悪意は連鎖するから」と君は言った。でも、僕は闘う必要があったんだ。一度は逃げて、深い海の底で膝を抱えた。そこでも君は僕を導いてくれた。でも、結局。結局、僕は負けたんだ。人の心から現れた闇に打ちのめされた。世界をより良くするために闘わなければならなかったのに……。
「思い出した?」
「うん、思い出したよ」
「わたしはね、世界がより良くなればいいと思うし、人の心に闇が生まれなければいいなと思うよ。でもね、そんなことより、あなたが一番大切なの。あなたの心が、身体が壊れないでいて、いつでも幸せでいてくれることが一番大事なの。だから、もう、闘うのはやめよう。あなたは、もう、十分やったから」
レティシアは涙を浮かべていた。僕の心は暖かなもので溢れていた。
「でもね、レティシア。このままじゃいけないよ。このまま世界に闇が溢れていったら、決して曲げてはならない真実の軸が、曲がってしまうんだ。だから、誰かが闘わなければならない」
レティシアは、また彫刻のような表情に戻り、黙って僕を見つめ、そして病室を去った。
僕は何度同じことを繰り返すのだろう。
少し、疲れた。もう一度、眠ろう。
(「深海より愛をこめて」終わり)
※「真昼の決闘」へと繋がる。
tamito
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