右側の扉

【詩】

 

右側の扉を開くと

断崖絶壁の向こうに真っ青な海が広がっていた

僕は躊躇なく扉の外に足を踏み出し

濃い潮の香りを胸のなかいっぱいに吸い込んだ

背後でドアの閉まる音がして振り返ると

扉は背景の木々と同化するように消えていった

僕は腰かけるのにちょうどいい平らな岩を探し

水平線の広がる海を遠くまで眺めた

こうしてゆっくりと海を見るのは何年ぶりだろう

雲ひとつない

ときおり鳶が風に乗って流されるように舞いあがる

沖をゆく船は一隻もなく

あるのは太陽と海と大地

そこに鳶と僕だけが存在している

ふと、さっき通り抜けた扉の位置を振り返る

やはりそこにはなにもない

扉を開ける前、僕は何をしていたのだろう

思い出そうとしても思い出せない

胸のなかに小さな不安が芽生え

それに呼応するように沖に入道雲が立ちあがる

風が少し冷たくて両腕で肩を抱く

いやだな、と声に出してみる

微かな記憶の欠片が頭のなかに浮かぶ

暖かなリビングのソファでくつろぐ誰か

僕が住んでいた家だろうか

家?

僕に家なんてあったのだろうか

頭のなかの映像がうすれてゆく

もう何も思い出せない

だけど誰かがささやく声が微かに聞こえる

それは僕の声に似ている

「やっぱり行くんだね。少しうらやましいよ」

もうひとりの僕が僕に語りかける

僕の心が帰りたい思いで満たされる

デモ、モウカエルコトハデキナインダ

僕はゆっくりと目を閉じる

最後に網膜に映ったのは

真昼の空に浮かぶ白い月だった

 

tamito

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#詩 #月 #もうひとりの僕

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