浄土教はご立派ですねぇ
地方での選挙啓発ポスターで、他力本願という言葉が否定的な意味=すなわち、他人任せという意味で使われていて、浄土宗における仏教用語であり、本来の使い方とは外れているという抗議が、浄土宗の宗教関係者から入り、結局ポスターを差し替えることになったらしい。
だが、浄土宗の教徒にとっての他力本願がどういう意味を持つのかは、浄土教徒だけが考えればいいことだろう。
元々は、漢字の組み合わせである、「他力」と「本願」が、特定の宗派の仏教用語として広まったのが最初であっても、その言葉が一般(浄土教とは無関係の多くの日本人)に定着する過程で、本来の使い方とは違う意味を持つようになるのは至極当然であり、何の不思議も感じない。
他力(たりき)といふは如来(にょらい)の本願力(ほんがんりき)なり
「自らの修行の功徳によって悟りを得るのでなく、阿弥陀仏の本願によって救済される。」
のが本来の意味であるとして、そんな教えなど、浄土教の宗教関係者以外にとっては、ありがたいわけがなく、他者=自分以外の存在であろう、仏による救済を期待すること=すなわち他人任せとして、否定的な意味で広まったのも、文字通りに意味を捉えたに過ぎない。
浄土教の信者にとって、あるいは僧にとって、どれほどありがたい言葉、大切な言葉であっても、阿弥陀如来など知ったことではない多くの日本人にとっては、他力本願も、三位一体等と同じで、ただの言葉にすぎない。
言葉の意味は、時代によって変化するし、その用法が一般に定着した時点で、たとえ最初に広められた時の用法とは違っても、間違いではなくなるだろうから。
ほとんどの言葉がそうであるように、字を組み合わせただけの造語を、これは私達にとっては大事な言葉であるから、間違った用法で使うなというなら、浄土教とは、なんと心の狭い人たちであり、教えではないか。
教祖の名前や経典の名前ならまだしも、いかなる宗教用語も、元来使われていた言葉、文字の組み合わせにすぎず、それをどういう意味で使うかなど、浄土教が決めることではない。