災害日本の歴史:火山と地震のやり過ごし方

何と!
出羽国の鳥海山は従三位勲五等の山だった。
「日本三代実録」に871(貞観13)年の噴火の時の記載で記されている。

この鳥海の神は、「続日本後記」によると、これより前、838(承和5)年5月に、「出羽の国従五位の上勲五等大物忌の神に、正五位の下を授け奉る」とあり、それ以来、位階しきりに進んで、71年には従三位勲五等であった。
当時めだって立身出世した神であるが、それはこの頃しきりに爆発したからであったらしい。

火山列島の思想(益田勝美)

火山は当時は神で、噴火を鎮めるために為政者ができることは、
人間のように位階をあげることでしかなかった。

もう一つは安政の江戸地震(1855年11月11日)である。
死者は町人4700名、武家方2000名。倒壊・焼失家屋1万棟以上、土蔵1500か所に及ぶ大惨事であった。

さらに当時はぺーリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、前年の1854年3月には日米和親条約を結んでいた。

その中で、爆発的に売れた鯰絵は現在でも多く残されている。
いろんな鯰絵が残されているが興味深いのは下の鯰絵である。


(安政二年十月二日夜大地震鯰問答(東京大学総合図書館所蔵))


地震鯰が、黒船のペリーらしき人物と言い争いしながら力比べをしているところを描いている。

鯰がペロリと呼ぶ相手に「ヤアあめりかのへげたれめ」といえばペリーは
「なにをこしゃくな、なまずぼうず」と答える。
鯰が「うぬらがくるので江戸の町がそうぞうしい、やくにもたたねへこうゑきなんぞとりかへべいハよしてくれ、江戸中あるくあめうりでたくさんだ」と投げかけると、
アメリカは「おのれ平日人間ニひょうたんでおさへられながら、去ねん霜月四日のひ下田ぬまずをうごかして、われわれをおひかへさん」とやり返す。

地震の恐怖と異国人による脅威。
結局鯰の方が勝っているということは、異国船への脅威より、地震に対する恐れの方が大きいと言っているのであろうか。
それほど地震に対する恐怖心は人々の心に強かったのであろう。

(江戸の自然災害:野中和夫編)

災害を「洒落のめす」ことでやり過ごそうという心性は、江戸で生まれたものであった。
多くの町人は外国人と触れ合う場も多くなかったので、その恐怖を身近に感じることはなかった。
それで即命に危険が迫る地震のほうが恐ろしかったのである。
しかし、庶民の町江戸は壊滅には至らず、災害後、ものすごいスピードで復興に向かった。
一方、幕府のほうは外国という名の外圧を契機に、崩壊に向かっていくのである。

最近の科学的な知見により、災害の多い日本人の遺伝子レベルで差異があることが分かってきているという。
不安感を直接抑制する主体はセロトニン(ノルアドレナリンやドーパミンの作用を抑制する)といわれる脳内ホルモン(神経伝達物質)が挙げられ、日本人はセロトニンの最も不足しやすい人種であることが知られている。
日本人はそもそも遺伝的に不安を感じやすい傾向にあるという。

日本は世界でも有数な災害大国であり、地震、津波、台風、暴風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、噴火など様々な災害が各地で発生している。
もし、日本において楽観的にかまえていたら、いざというときに対応することができず、多くの人が亡くなってしまう危険がある。
自分一人の判断で行動せず、共同体の全員で協力し合い、災害から住民を守るために、日本人は不安遺伝子を育ててきた可能性がある。
逆に言えば、進化論でいうそういう人たちが生き残ってきたといえる。

                      


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