読書について

私は日頃の読書で「もどかしさ」と「興奮」を感じている。文章、とりわけ学術的な文章を読むとは、長谷正人が「分からないという経験―ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を読む*」で述べる「分からないという経験」と「何かがふっと分かるという経験」の連続であるように思う。そして、その繰り返しに終わりは見えない。また、何人かで同じ文章を読むような読書会では、反対に「何かがふっと分からなくなるという経験」を頻繁に味わう。ひとりで読んでいたときに、当然のように読まれた気心の知れた一節が、誰かの指摘により一変し、怪しげで得体の知れない雰囲気を纏いはじめるのだ。

文章を読むとは、文章が読めるとはどういった状態を指すのだろう。ただ、字面をなぞることを「読む」といえるのか。はたまた、一瞬のわかったような経験の積み重ねが「読めた」に繋がるのだろうか。文章の背後には、言語を通して私達に語りかける、行為者としての筆者が存在するように思われてならない。作者は果たして絶命したのだろうか。その存在を意識したときに、読書とはテクスト及びその筆者との二重のコミュニケーションであるように感じられる。私達は、その二重性の狭間で右往左往せざるを得ない。しかし、そんな私達は決して無力な存在ではなく、両者と対等に渡り合い、またそこに新たな橋をかけることも出来るはずである。これからの大学生活では読書の苛烈さ、苦しみと喜びの両方と向き合っていきたい、その再編成をめざして。

*『必修基礎演習ガイドブック』早稲田大学 文化構想学部・文学部、2019年

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