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平等主義

これはずっと自分につきまとう信念のような価値観のようなものである。

幼い頃から性格や価値観は変化してきた。たとえば、昔の私は完璧主義・潔癖的な傾向があった。シーツがシワなく敷かれていないと嫌だとか、漢字ドリルをとても丁寧になぞるとか、そういうレベルだけど。

でも、そんな性質は今では信じられないくらいに変わっていった。大人になるにつれて、私は大雑把になっていった。

平等主義についても、小さい頃に比べれば原理主義的な傾向は薄れてきた。

今振り返ると、昔は原理主義的だった。

相手が望んでいなくても、自分にとっての「平等な状態」を押し付けた。

たとえば、母は少食だったのだけど、私は母は遠慮しているのだと思い込んでいた。個体によって食べる量に違いがあることを受け容れることができていなかったのだ。だから、母も私と同じ量のごはんを食べることを望んだ。

父は、私より身体が大きくて、食べる量が多くても仕方ないのに、私より多く食べるのは欲張りだと思っていて、許せなかった。

その考えに固執し、囚われていた。だから、自分の考える平等が達成されないと怒りが生じたし、他者にも自分の考える平等状態を押し付けていた。

こうした状態を“原理主義的”というのだと思う。今こうやって書いていると、「なんて自己中なんだ…」とバカバカしく思えるが、その頃は真剣だった。

今はそうした原理主義的な傾向は薄れてきたものの、それでもやはり、いろんな場面で私の中の平等主義が立ち現れる。

分かりやすい事例は掃除や片付け。小学校の頃から掃除をサボることに嫌悪感を抱いていた(笑)

公共の場をみんなで掃除しているのだから、平等に掃除をするべきだ、と。

もっとパブリックな話をすれば、教育機会や生活状態についても、完全に平等にとは言わないけど、ある一定のラインは保たれるべきだと強く思う。

でも、現実には平等なことなんてほとんどない。

だから、平等に対するこだわりはなかなか面倒くさいものである。

こだわりがあるって面倒くさい。その価値観から逸脱するものに出遭うと、いちいち怒りとか違和感のようなものが湧き上がってきて、体力を消耗する気がする。一方で、生きているうえで大事な感情でもある気がする。

つらつらと書いてきたけど、私がこの文章を書いたのは、なぜ平等主義が私の心に強く根付いているのか、その背景を知りたいと思ったからである。

いつか、この謎を解く気づきを得られたらなあと思って、備忘録として考えたことを記しておく。


花を買って生活に彩りを…