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シオニズム運動とイラン 友好と敵対

イラン(当時はペルシャとして知られていた)は、イスラエルの歴史やシオニズム運動において、直接的な役割を果たしたわけではありませんが、中東地域全体の地政学的なダイナミクスにおいては重要なプレーヤーでした。特に、イスラエル建国後の地域の政治において重要な役割を果たしています。以下はイランがこの問題にどのように関わってきたかの概要です。

シオニズム運動とイスラエル建国前

  • 第一次世界大戦時: イランはオスマン帝国やロシア、後にはイギリスの影響下にありましたが、シオニズム運動やパレスチナにおけるイギリスの政策に直接関与することはありませんでした。

  • ユダヤ人コミュニティ: イランには古くからユダヤ人コミュニティが存在し、これらのコミュニティは主に国内の社会・経済活動に関わっていましたが、シオニズム運動に積極的に関わることは少なかったです。

イスラエル建国後

  • 初期の外交関係: イスラエルが1948年に建国された後、イランは1950年にイスラエルを国家として承認しました。イランとイスラエルは、主に非公式ながらも友好的な関係を築いていました。この関係は、主にイランのモハンマド・レザー・シャーの下で、冷戦期の米国の同盟国としての立場と結びついていました。

  • 経済的・軍事的関係: 両国は石油、農業、水管理技術など、いくつかの分野で協力関係を築きました。また、イランはイスラエルから武器を購入するなど軍事的な協力も行っていました。

イラン革命後(1979年)

  • 関係の逆転: 1979年のイラン革命後、新たに樹立されたイスラム共和国はイスラエルとの外交関係を断絶し、以降はイスラエルを激しく批判する立場を取り続けています。イランはパレスチナ解放機構(PLO)やハマス、ヒズボラなど、イスラエルに対抗する武装勢力を支援しています。

現代

  • 地域の緊張: 現在、イランはイスラエルにとって主要な地域的脅威と見なされており、両国間の緊張は中東の安全保障問題に大きな影響を与えています。イランの核開発問題は、特にイスラエルからの強い反発を受けています。

イランの役割は、イスラエル建国の歴史においては間接的ながらも、建国後の地域政治においては非常に重要なものとなっています。

何故関係が反転したか


1979年のイラン革命は、イランの国内政治だけでなく、その国際関係においても劇的な変化をもたらしました。この革命によって、西洋寄りで親米だったモハンマド・レザー・シャーの政権が倒れ、シーア派イスラム教の宗教指導者アヤトラ・ホメイニが率いるイスラム共和国が樹立されました。この政権交代がイランとイスラエルの関係にどのように影響を与えたかを以下に詳述します。

宗教的・イデオロギー的要因

新しいイランの政権は、シーア派イスラム教の原理主義に基づいており、そのイデオロギーは西洋の影響とシオニズムに強く反対していました。アヤトラ・ホメイニは、イスラエルを「イスラム世界に対する西洋の前哨基地」と見なし、その存在自体が中東地域のイスラム諸国にとって脅威であると主張しました。

地政学的な再配置

革命前のイランは、地域の安定のために西洋諸国、特にアメリカと密接に協力していましたが、革命によってその外交方針は一転しました。イランはアメリカ及びその同盟国と距離を置くようになり、これにはイスラエルも含まれていました。イスラエルとの関係断絶は、新政権が自らの独立と反西洋的姿勢を内外に示す手段となりました。

支援の転換

革命後、イランはパレスチナの解放運動やレバノンのヒズボラなど、イスラエルに反対するイスラム教シーア派の武装組織を支援する方針を採用しました。これらの組織に対する支援は、イランがイスラム世界におけるリーダーシップを主張し、その地位を確立する手段となりました。

内政的な要因

国内的にも、イスラエルとの断絶は新政権に対する支持を固める要因となりました。イラン国内においても、イスラエルに対する否定的な感情は強く、新政権はこれを利用して国民の一体感を醸成し、政権の正統性を高める効果がありました。

このように、1979年の革命はイランの外交政策の根底からの変更をもたらし、特にイスラエルとの関係においては敵対的な態度へと完全に転換することになりました。この変化は、イランが中東地域および国際舞台で取るべき立場を根本的に再定義するものでした。

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