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流儀の押しつけ

わたしは「伝える」「手渡す」こともナリワイとしています。それは経験から得たものの中から「わかちあいたい」ことがあって、それが他の人の役に立つと考えているからです。なので、「伝える会」「手渡す会」のときには、「とりあえず同じようにやってみてよ」と勧めます。やってみてその上で自分のやりよいようにアレンジするのは構いません。やるか、やらないかをご自身で決めることもかまいません。わかちあっているその「場」で、同じようにやってみてくださればそれでOK。同じようにやってみた上での批判は歓迎します。自分の流儀に合わなければ「やらない」という選択肢はありだと思います。

この「とりあえず同じようにやってみてよ」というのは「流儀の押し付け」だとは考えていません。あくまでもわたしが「手渡したい」「伝えたい」ことを、「相手はそのまま受け取ったかどうか」を確認したいだけです。「とりあえずそのままの形で受け取ってもらった」ことが確認できれば、あとはどうしようと相手の自由です。

それとは別に、「手渡す側」「受け取る側」という「役割」以外の場面で、わたしは「流儀の押し付け」をしたくないと考えています。そして押し付けられることも嫌いです。

息子はニュージーランドの高校に行き、その間現地の家庭にホームステイしていました。留学生のホストファミリーになるにあたって、家庭は学校でオリエンテーションを受けるそうです。その中で「どこから来た学生かによって愛情表現の受け取り方やニーズが違う」という説明があるらしく、とても興味深い話を聴きました。

スペイン、イタリア、メキシコなどの学生は大げさなくらいの愛情表現とハグが必要で、ドイツ、北欧諸国などは通常通りでOK、日本や韓国などアジア圏からの学生の場合は笑顔や眼差しで充分でハグはtoo muchに感じさせることがあるので控えめに…というような内容でした。

愛情表現だけではなく生活習慣なども異なることを、たとえば「日本人は人の履物を平気ではくため、庭に出るサンダルなどを履かれてもいきなり怒ってはいけません」…など。地域や学校にもよるのでしょうが、異文化交流とはこういうことだよなぁと面白く聞いたものです。

ある宮廷の晩餐会で、招かれた客がテーブルマナーを知らずにフィンガーボウルの水を飲んでしまったときに、招待者である女王が恥をかかせまいと同じようにフィンガーボウルの水を飲んでみせた…という逸話があるように、流儀やマナーというものは共有している人たちの間では疑問をもたれることはありませんが、共有していない人にとってはストレスの種になりえます。

流儀、お作法、マナーといったものは、その場のコミュニケーションを円滑にするためのものであって、それを知らない人を選別したり、恥をかかせたり、居心地の悪い思いをさせるものでは本来ないはずです。何を大切にしているのか、何にリスペクトを示すのか、人それぞれ違うだろうし、ましてや異なる文化の人にとっては、大切なものがなにか、その場の何にリスペクトを示せばよいのか、「未知」なのですから、嗤うのではなく「伝える」ことが必要。

ギニアの外交官オスマン・サンコン氏が日本のギニア大使館に赴任して初めて日本の葬式に参列したとき、焼香の列の前の人が「ご愁傷さま」と挨拶したのを「ごちそうさま」と聞き間違えて抹香を食べてしまった話も有名です。後日談としてはひとつの笑い話でもありますが、「同じように振る舞おう」と努めて食べ物ではないものを食べたその姿勢に「場へのリスペクト」を感じます。

正解のない問いではありますが「ハグ」は日本において、微妙な位置づけになってきました。

まず、過去において日本は長く「ハグ」はごくごく親密な人の間でだけかわされる挨拶でした。結婚式の様式からもわかるように、キリスト教式の結婚式以外で夫婦となったふたりがキスし、ハグすることはあまりありません(宗教を介さない人前式の場合はあるでしょう)。昭和10年代生まれのわたしの両親がハグするのを見たことはありません。わたしと同年代の人のほとんどが、両親のハグを見たことが無いと思います。親からハグされたことも小さな時を除いて、思春期以降は無い人が多いのではないでしょうか。

でも、わたしが親になったらそこらへんが変わってきました。息子が小さなときはもちろん、思春期になっても、そして今でも「おかえり」「またね」とハグします。息子のパートナーともハグしあいます。友だちでも「久しぶりー」とか「またね」とハグすることがあります。「ことばだけで伝えきれない親密さ」を伝え合うための触れ合いです。

初対面ではわたしからすることはありません。

理由は「その人の文化におけるハグの位置づけ」がどこにあるのかわからないからです。

日本で日本人から初対面でハグを求められると困惑することがあります。

「ことばだけでは伝えきれない親密さ」が「まだわたしの中にない」からです。ただ、「この人はハグすることで歓迎なり親密さを表現したい人」と理解します。そして「わたしが困惑していることは無視する人(自分の流儀を優先する人)」という印象が、わたしの中に生まれます。

「はじめまして」という初対面のあいさつには「初めてお目にかかります。お会いできて嬉しいです」という意味が込められています。「はじめまして」につづくのは、名前などの自己紹介であり、本当に「喜ばしい関係」になるのかどうかはまだ未定。そう考えている人に対してのいきなりのハグは、「この出会いは喜ばしい関係のスタートである!」と疑問の余地のないものと一方的に決められたような感じがして、逆に疑問が湧いたりするのです(へそ曲がりなもので)。

長い間メールなどの間接的なやりとりで互いに親近感を高めあってきた場合には「やっとリアルに会えた!」という感動から、初対面であってもハグしあうこともあるのですが、「うちらの挨拶はハグ!」のような「うちわマナー」的なものだと引いちゃいます。「他にはどんな『うちわマナー』が存在するのか…」と警戒心が湧きます(へそ曲がりなもので)。

わたしの感覚では、親密さの結果として「ハグしたくなることがある」のであって、喜ばしい関係性や親密さに「ハグ」は必須ではありません。ハグしなくても親密さや信頼関係は築けるし、ハグされたからといって親密さや信頼が生まれるとは思いません。

「ただの挨拶です、そこまで深い意味はありません(だからさせてorします)」ときっと仰るのでしょうが、それは「流儀の押し付け」というものです(ぴしゃり)。

「ハグはカジュアルな挨拶」という文化への憧れがあるのかもしれませんが、パーソナルスペースは文化によっても違うし、個人差もあるのです。「わたしはどうか」だけではなく「あなたがどうか」を考えられる人のほうが、わたしにとっては安心できます。

親密さや信頼関係は「安全・安心」から生まれます。

自戒を込めて

タイトルの写真は初代ミニピンのニコラ。わたしの腕をハグしています。「おいで」と腕を広げるとハグしてくるような可愛いわんこでした。

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