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17歳の私が初めて肌を染めてから、夢を抱くまで。

初めて自分の肌を染めてから、10年経った。
tamayuraを名乗り始めてから、7年経った。

高校卒業から開業、その後少しの話は以前サラッと記事にしていますが10年経ったのかあ、と思いを馳せながらもう少し前の話をしましょう。
時系列的にはこの話の方が前なので、最後にリンクを置いておきます。

出会ってしまった日

17歳、たまたまGO!GO!7188のC7のPVを観た。
とてもかっこいい模様が映っていて「これってなんて模様?」とすぐ調べた。そうかこれはヘナタトゥーっていうもので使うのか。じゃあやってみよう。

とっても簡単な憧れだった、とても簡単な動機ですぐに慣れない通販をした。それでもあの時のときめきは忘れられない。
見たことも、やったこともないよくわからないものを手探りでやってみる高校生、そんなもの美しいに決まっているではないかと大人になった私は思う。上手とは言えない模様、レシピもわからないので染まりも良くない、それでも自分の肌はいつまでも見ていられた。

早すぎるワーカーホリックの目覚め

当時、アルバイトが楽しくて仕方なかった、というよりはあまりにも早すぎるワーカーホリックへの目覚めをしていた。段々頭が痛くなってきて、起きられなくなっておかしいぞと思い色んな病院へ通うも原因はわからず結局精神科にたどりついた。鬱病ですね、となってから完全に不登校になるまではすぐだった。それでも自分が存在している意味を噛み締めたくて絶対にアルバイトは休まなかった。

許されていた、と思っていた

先生も、友達もすごく優しくて救われた、と思うが腫れ物に触れたくなかったよねごめんねという申し訳なさの方が今は大きい。
保健室の先生は同時期に鬱になってしまった友人と一つのベッドで寝ることも許してくれて私の欠席日数を把握して、本当に行かなきゃダメな授業の時にだけ起こしてくれた。

薬の眠気に耐えられない私を起こしたい国語の先生は「馬場さん、今日の授業は与謝野晶子だよ!起きて!」と言っていた。(これについては、いつか私の尊敬する人物を紹介します)
移動教室の途中で力尽きる私を先生の椅子でガラガラと運んでくれたクラスメイトも、苦手すぎる英語の授業のスピーチテストを逃亡する私も、体育の授業で何もしないからただ卓球台の前で待っていた他のクラスの誰かも、今思えば許されてはいけなかった自分を形だけでも許してくれていたことで今も少し苦しくなる。

それでも当時の私を知っている人は頑張っていて素敵だと言ってくれる、こうして誰かに許されて、助けられ続けてきたからいつまでもできる限り人に与えられる人間になりたい、と大人になった私は誓った。

私のときめきを分かち合えた時

教室で友達に描いた、家で母にも描いた。修学旅行にヘナペーストを持っていったら全然話したことのない他のクラスのギャルが集ってきて描いた。
私が初めて肌を染めた日と同じように見惚れては褒めてくれた。私も嬉しくて友達も嬉しくて、満たされる瞬間だった。

なんだかそれが夢に変わった時

ある日生業、という言葉を知った。超かっこいいじゃん。ただそれだけでワクワクした。

生きるために、そうして暮らしたいたい。


私、仕事!とかじゃなくてこうして生きていたい。ヘナタトゥーが仕事になるかとかわかんないけど、それはもう一旦置いといて私ヘナタトゥーをやって生きていきます!という、あんまりにも死にたかった私と、満たされる僅かな瞬間が夢に変わった時だった。


高校3年生の、好きな言葉の作文です。もしかしたら、今もあの頃も変わっていないのかもしれないなあ。



そしてこの記事に繋がります。
10年、早かったとも思えれば、何をしてきたんだろう、と悔しさを感じ、人に生かされてきたことに感謝も、今となっては謝りたくて仕方なかったりもします。生きていてよかった、と思えるその日まで。



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