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正論は時にして暴力だ

少し前に「あなたの中で1番正しいのって誰?」という問いを受けた。
私は基本的に即答が苦手だけれどこれだけはすぐに答えることができた

「え、1番正しいのは、私だけど・・・」

私は言葉で人を幾度となく殴ってきた

あまりに反射的に答えてしまったが、少し経ってから正しさについて少し考えた。
そして私が今までに正論で人を傷つけてしまったことも思い出した。

その頃は「どうしてそんなことをしてしまうんだ!と止めてくれる人が他にいないのなら、強く言ってやろう」なんていう邪さがあった。
私がそう強い言葉を使ってしまった後は大体「そう言うことを言って欲しかったんじゃない」「それができていたら困っていない」だった。
本当は信頼関係なんてなかったんじゃないか、と悔いた。

反対に「ちゃんと本当に思っていることを言って」と言われることもあった。
これは、信頼関係があるにも関わらず、と悔いた。

アンパンマン、殴ってんじゃん。

人の悩みは理屈では解決しない、でも根拠がある理屈はきっと正しい
正論が正しい理屈ならばなぜ正しいことを言っているはずなのに人を傷つけてしまうのか。それが間違いなのであれば、遠慮した発言をしてしまいどうしてまた相手を傷つけてしまうのか。

身近な話でいくと
アンパンマンは正義かもしれないがだからといってバイキンマンを殴った時カビるんるんはどう思うだろう?
とか
ジャイアンやスネ夫がのび太にあんなことをしてしまうのは、彼らの心の寂しさからくるものだとしたら、反抗しても根本解決にならないのではないか
とか、そんなところだと思う。

数年前の私のメモから


それよりは深く考えることなく、それでも少し私の心には引っかかり、またしばらく経ち、数年前の自分のメモのノートを見てこれだったのか、と思えた。

正邪は心の在り方
善悪は行為や事象
正邪とは客観性やある主観性においてそれが正か邪か
善とは相手主体の道徳的正しさ、悪とはエゴイズムだ

そうすると私が人につい正論だと思って話していたことは万が一にも正論、だとしても私がどこか邪なことが原因だった。
なんだか、自分が上に立った気になったり、自分を正しくしていたいばかりで相手が求めていることではなかった、それでも私はどこか相手が許せなかったりしていたんだった。
だから正論は時として暴力になる。

ではなぜ、私は間違えてしまうのか。

それは、私の正義は決して正解ではなかったからだった。

私は私のことがとても好きだし、自分が正しい、というのは自分の信条に対して忠実に生きているので当然だった。
ただ「解釈の正しさ」が本来の正解だったのかもしれない。
対話の中で正解を探してしまうことも、誠意に欠いた発言だったのかもしれない。
なにより「そんなこと言われたくない」と言う言葉が返ってくるのが怖かった。

私は本質にすぐに近づきたがったり、人の心の柔らかい部分にすぐに触れてしまう。みんな、そんな準備なんて整っていないのに。

結論という結論は、特に出ていないのだけどね

と書いているうちにでは道徳とは、社会とは、アリストテレスが何を言っているのか、そんなところまで考えると大体頭が痛くなってくる。幸福な頭痛だ。

この頃、私の思想的な話をすると面白がっていただけることが増えてきたのでたくさんのメモ書きをまとめる作業を息抜きにしよう、と思ったのですが私がこうして日々ぼんやりと考えている私のことには本当に根拠がありません。例えば学術的に、歴史的背景、文学、などと言われてしまうと「私の知識不足です」と謝罪する他ありません。

今まで長年ぼんやりと考えて、思いついたことを忘れたくなくて、言葉の意味を調べていくことが楽しかった。

ぼんやりと考えてきた私のことを、ぼんやりと読んでいただけますと幸いです。


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