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「休日とか何してるの?」という質問が嫌いだ。

社会人になってからの出会いの場で、あるいはプライベートでの出会いの場なんかで新たな人と話す、というシチュエーションで、ほぼ100パーセント聞かれることがある。
「休みの日とかって何してるの?」
「趣味、何?」
私はこの質問をされるたび、なんだかとてもうんざりする…そして、うんざりしながらも、大抵はこんな感じで答える…
「映画が好きで、Netflixを見たり、ひとりでも映画館行ったりします」
「休みの日は、平日分の作り置きをしたり、家でのんびりと…とかですかね…」
「服を見に行ったり友達と飲んだりかな」

どれも当たり障りのない、無難な、極めてありふれた答えだが、まあ間違ってはいない。
事実、映画は好きだし、ひとりで映画館にいくこともあるし、料理もするし、服を見に行くことはあるし、友達と飲むこともあるのだから。

大抵の反応はこうだ…
「映画、私も好きです。どんな映画を観ますか?」
「へえ〜料理するんだ!女子力高い!えらいね」
「アウトドア派なんだ、ちょっと意外かも」

私はそれを聞いて、もやもやする。
この質問はなんだか、小さい頃に流行った自分のプロフィール帳を思い出させる…「しゅみ」とか「とくぎ」みたいな一問一答式の、可愛いデザインのあのシート。あるいは、婚活とかで書くようなプロフィールシート。料理とかヨガとかドライブみたいな回答が大量発生するあのシート。もちろん、それが好きではあるんだけれど…あるんだけれど!!といったかんじで、とにかく、もやもやするのだ。

「自分はこういう趣味を持っている」「休みにすることはこれだ」と、明確に、他者から見た自分を意識してカテゴライズし、それが属性として相手に把握される感覚。それが私の場合、答える際に少なからず、相手との壁を築き上げてしまうのだ。

実際のところを考えてみれば、映画を観たくないときだってあるし、好きなジャンルが決まりきっているわけでもない。料理は好きだが、それで家庭的と評価されたいわけじゃない。インドアな時もあればアウトドアなときだってある。休日することなんて、極論をいえば、その休日のたびに違うのだ。
私はこういう人間ですよ、というアピールは、表面的な関係を築くにはいいけれど、実際とはギャップが生まれてしまう。

でもそんな偏屈なことを言ったって、プライベートに踏み込むための会話のとっかかりは、やっぱりこの質問になってくるのかな。そう諦めてきた。

だが、最近見つけた小さなコーヒースタンドで、新たな問いかけ方を知ることができた。

そこにはいつも、同年齢のバリスタさんがいる。
私はそのコーヒースタンドのアイスカフェラテに惚れ込んで、何度か通っているうちに、彼と顔見知りになった。

その日は雨で、平日の昼間。客は私だけだった。
降り頻る雨の音と、R&BのBGMと、コーヒーをドリップする香りが充満する中で、私はふと言った。
「ここのアイスカフェラテが好きです」
すると彼は嬉しそうにありがとうと言って、少し黙っってから、付け足した。
「僕は、雨の音を聞きながら飲むこのコーヒーが好きなんです。それから今掛かっているこの音楽も」

私たちはそれから、私の好きなコーヒー豆の話と、彼の好きなオルタナティブ系アーティストの話と、なぜ雨の日が好きなのかという話について、2時間ほど(!)話した。

私はその時、久しぶりに、会話をしていてうれしくて感動していた。

普段何してる?趣味は?と聞かれて、あれっ、なんだっけ。何してるっけ。なんて答えようかなあ。となることはないだろうか。私はよくあるのだ。結果的に答えた内容はなんだか自分とは乖離していて、そのせいで、相手と本当に打ち解けるという意味で会話を楽しむことが、最近できていなかった。

でも、この雨の日、私のもやもやが流されていく感覚があった。私はこういうものが好き。こういう雰囲気が好き。確信を持ってそう言えるものがあるらしい、とわかったからだ。いろいろとある中で、今この瞬間、この人に伝えたい「私の好きなもの」ってなんだろう。そういうオープンな心で、ひとつずつ、互いに好きなものを共有していく。全く違う人間だからこそ、そういう向き合い方ができたなら楽しいだろう。

プロフィールシートの交換に興味はない。
そんなところに書く欄はない、それでは決して明らかにならないほどに、些細で、繊細で、取るに足らない、だがとても大切にしたいものに、人間のコアの片鱗があるように思うのだ。

好きなもののことで、お酒がなくても、深夜12時まで語れる。そんな関係を、私はずっと欲していたのだと気づいた。

「あなたは何が好き?」
私は何が好きなんだろう。
たとえば、この日の空だろうか。


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