見出し画像

二十日大根を植える。


noteに登録してはや一年。書いては消してを繰り返して、やがて開かなくなったクリエイターのマイページを、一年振りに開いてみた。

その理由は、自分も書いてみたくなったから。文章で人と繋がってみたくなったから。そんな単純なこと。

昨年末に仕事を辞めて休養して、家にいることが増えた。食べることも、眠ることもできる。人と電話をしたり会話することもできる。本も読めるし映画も見れる。YouTubeで知りたいことも勉強できる。本当に恵まれていると思う。そんな中でも、自分のなかにある隙間を感じて、寂しくなったり、見えない未来が不安になったり、してしまうもので。そしてそれは、誰かに埋めてもらうものではないのだと、感じているこの頃。

そんなこんなで、はつかだいこんの種を買った。子どもの頃、プランターで育てて収穫したときの幸せな気持ちを思い出して。それに、土をいじっていると、なんとなく元気を貰えそうだし、出てきた芽はまるで我が子のように愛おしい(かもしれない)。

仕事をしている時は、社会の中で誰かしらの役に立っていたのだなあと思う。体調が悪くなって辞めざるを得なかった時は、気持ちが追い詰められていたので、辞めたことに後悔はない。ただ単純に、所属する組織が家族だけになって、わかりやすい形の「ここにいる意味」を感じる機会が、ひとつ減って曖昧になっただけのこと。あればあるなりに色々あるし、なければないなりに色々ある。楽しい瞬間、苦しい瞬間が、仕事をしていてもしていなくても、恋人がいてもいなくても、結婚していてもいなくても、ある。

はつかだいこんの種をまく前には、土を作る工程がある。肥料を混ぜて、腐葉土を入れて、よく混ぜてから種を植える。なんとなく土をプランターに入れて指で穴をあけて種をまく、とざっくり記憶していたので、改めて野菜ひとつ作るにも手間と時間がかかっていることを思い出す。実際に携わると、肌でそれを感じる。久しぶりの肌からの学びのような気がした。

汗をかきながら太陽の下で土に穴をあけて種をまいた。優しく土をかぶせて、「美味しく育ってね」と願いを込める。プランターを置く場所は、日常でよく通る場所にした。遠くに置いてしまうと、見に行かない気がしたから。それに、眠るときになんとなく、「ああ、今近くにあの子たちがいるんだわ」と思える。今日からわたしははつかだいこんを想って眠るのだ。

小さなやりたいことをひとつ叶えた。こうやって小さく「出来た」を重ねていけば、何か見えそうな気がする。

種を今日植えたのは、たまたま一本の映画に出会ったからだった。「最高の人生の見つけ方」。余命半年と宣告された2人の男性が、偶然病室の隣りのベッドになったことで、死ぬまでにやりたいことを一緒に実行していく物語。

観終わったら、はつかだいこんの種を持っていた。買ってからいつまこうかと思いながら頭の隅に置いていた存在。明日でいいなら今日でもいい。いずれでいいなら今日でもいい。種をまくのは今日でもいい。出来るのなら、今やってもいい。それは、たとえはつかだいこんの種を植えるなんて、小さなことでもいいのだ。

芽が出るのが楽しみだなと思いながら今夜は眠る。実りを待つ、ささやかな楽しみがひとつ出来た。

いただいたサポートで、お菓子を買います。 悲しくなった時にそのお菓子を食べて、また書いたり読んだりコツコツ紡いでいきます。目をとめてくださってありがとうございます*