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左手に、のこるもの。

しいしい、と。静かに音が聞こえてきて、一瞬、今、どこにいるかがわからなくなる。

ほわっと、やわらかで、あたたかい場所に、顔を埋めて。すうっと息を吸いこんだら、わたしのにおい。自分の匂いがしているということは、ここは安全。いつもの場所で、いつものように、過ごしているはず。

頭もぼんやりしてきたから、さっきよりは目が覚めてきたのかもしれない。
(ということは、わたしはまだ眠っているらしい)

ごおごお、ごおごお。隣から、夫のいびきが聞こえてくる。
まだ、朝になる前の夜。外も暗い。窓の向こうでは、久しぶりの雨が降っているみたい。遠くから聞こえる車のエンジン音とからみあうみたいに、雨粒が重なりながら落ちてくる音が、さあさあと静かに聞こえる。

まだ、もうちょっと。
朝まで、続きを寝よう。

ころんと寝返りを打って、やわらかな布団に顔をひきこんだら、左手首の上をきゅっとつかまれた。

いや、まだわたしは寝るんだよ。

せっかくの雨の時間、眠っている方が気持ち良い。手首をつかむ、うるさい手をふりはらおうとして、腰から頭に向かって冷気が駆け上がった。

これ、誰の手だ?

窓の外の、しいしい、さらさら。雨の音。
隣のベッドの、ごおごお、夫のいびき。
……音と気配を自覚したら、左側にざわりと鳥肌が立った。

もうだめだ、見てはいけない。
寝よう。

すっと、深い穴に落ちていくみたいにして、眠った。
意識が落ちる直前に、本堂の奥にあった木によく似た香りが部屋の中で動いた気がした。

次、目を開けたら部屋の中は、ぱきっと明るかった。窓の外は、晴れていて、隣のベッドは空っぽになっていた。夫はもう仕事を始めている時間になっていた。

明るくなっている部屋の中で、そっと左腕を見た。手首の上に、指の跡。
少し大きめの丸い跡は親指で、その下にみっつ続く薄い跡は中指から小指かな。かなり強めにひっぱられたみたい。

あの手は、どこへわたしをつれて行こうとしていたんだろう。何を伝えようとしたんだろう。
わたしは何を思い出せばいいんだろう。

あの朝から、ようやく1週間。
うっすら青く、親指に触れられていた部分がのこる。
けれど、まだ。わたしに思い出せるものがない。

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