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自分のままに過ごせる場所を

目の奥から、ふわっとひかりがあがってきたから、そろそろ、起きてもいい時間。くるんと身体に巻き込んだ掛布団のすきまに向かって、うんしょっと伸びをする。ゆっくり、おふとんのなかの空気を吸いこむ。

おふとんは、いつもと違う匂い。家ではない場所で眠っていたなと思い出す。冬眠していたカメが目を覚まして動き始めたように、じんわりとふとんから顔を出す。

ベッドの横には、机。がちゃがちゃと、たくさんの紙が貼ってある。時間割表、宿題チェック表、日本地図、何かの本のキャラクターポスター、雑誌の切り抜き……部屋の持ち主である女の子が、いつも目にしている風景。

「ねえ、起きた? そろそろ、ごはんを食べよう。学校へ行く準備をするよ」

ぱたぱた、かわいい足音をさせて、部屋の持ち主な女の子が部屋に戻ってくる。

おはよう。
手をひかれるみたいにして、パジャマのままでキッチンへと連れていかれた。わたしの座るイスだけのこして、他のイスはもう満員。

わちゃわちゃ。にぎやかに。
テーブルの上を、大きさの違う手が行き来する。
茶碗に盛られたごはんが、楽しそうに運ばれる。
目の前には、焼き具合の違う目玉焼きがならんでいて、大人の手と、子供の手との間を、しょうゆ差しが回っていく。

いただきますの声もそこそこに、箸が皿とぶつかるおとがする。目が覚めて、それほど時間は過ぎていないのに、もううるさいくらいに話をはじめる子どもたち。

寝起きのぼんやりしたわたしの頭のなかへ、ゆっくりヒトの声が染みてくる。夫婦ふたりだけの自宅にいる間は決して聞くことのない、子どもたちの声。わたしのお腹をとおしていつかは会えるつもりだったけれど、わたしには届かなかった、子どもがいる食卓の音と風景。

どこかで時間が重なったなら、目の前にいつもあったかもしれない風景を、今違った形でみている。

おとうさんがいて、おかあさんがいて。子どもがふたりか三人いる。ときどき、おばあちゃんに会いにいって、ケンカしたり笑ったり。いつかは、子どもたちも順番に学校へ行き、高校生になり部活動に精を出し。大学生になって、ひとり暮らしをしたいと言い出すんだろう。

ぼんやりと、そんな大人になると思っていたけれど、わたしは子どもを産めなかった。小さい頃からあこがれていた大人に、なかなか届かない。

時間が過ぎて身体は大人になった。周りからも大人として扱われるし、自分でも、すっかり大人として存在しているとわかっている。けれども、小さなころから想像していた大人の姿(子どもたちと暮らしている家族を作っているはずのわたし)には成れていないし、もうなれない。かなしい気持ちはちょっぴり残る。

でも、違う形で大人になっているわたし。

「こんな大人になっているよ。今のわたしが思うより、生きていることが面白いよ」と、幼かった頃のわたしに教えてあげたい。幼いころにあこがれた家族をもっているわたしにはなれていないけれど、わたしのままで過ごしていい場所で生きている。そして、そのことは。思っているよりずっといい気分。しあわせに過ごせているよ。

だから、幼いころのわたしに伝えたい。

大人になれなくていいよ。大人に(無理して)ならなくていい。
ただ、自分そのもので過ごすことのできる場所をみつければいい、つくればいい。そして、大きくなったわたしは、そんな場所をみつけられているから、ね。思っているより、いい気分で過ごしているよ。

自分の朝ごはんを食べながら、学校へ向かう子どもたちを手伝って荷物の確認。ごはんの後、食器を片付け始めたかと思ったら、あっという間に出かける時間になる。せまい廊下を、ランドセルやカバンを持って子どもたちが行ったり来たりする。

ばたん、ばたん。ばたん。
立て続いて玄関のドアが閉まる音を聞き、残るのは洗い終えた食器の並んだテーブルと静かな家。

最後にわたしも、家を出る。鍵を閉めて、日常へ戻っていく。子どもたちのいる「家」は今日でおしまい。明日からは妹宅へ。わたしのなりたかった大人になった妹宅に立ち寄る。






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