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頼まれてもないのに。その29(読書録:『ウェストファリア体制-天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法』)


ルールなきケンカは際限なき殺し合い。

目の前の相手を、自分たちと同じ、対等な人間だと思わない争いは。すなわち正義という名の「人間」と、悪という名の「もはや人間ではないもの」との戦いは。

悪くて間違っている相手に対してならば正義は何をしても許されるのだとしたら。

自ら「我々が間違っているかもしれないけれど」と思いながら始める争いなど、古今東西、きっとどこを探しても存在しないのでしょう。

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読書録をテーマにもう一つ。これからの時代にこそ積極的にお勧めしなければならないと思う一冊を。

倉山満さんの本を読むのはこの本で3冊目。同じ著者の本ばかり読むと思考が一方向に偏りかねないという危惧から、少なくとも短期間集中ではあまりやらないようにしています。

とはいえ例外も当然ありまして。倉山氏の場合どの主張にも通底している大きな本筋があるんですが、なぜその本筋に至ったのかを複数の歴史的知識を用いて説明しているため、各々の歴史的事実に興味がわいてさらに深く知りたいと思ったら、それぞれ個別に本が出されていると。

もちろんこれらはあくまでも著者の主張のために著者が集めてきた歴史的史料や事実であるという偏りはあります。思想を形づくる段階は当然ボトムアップだとしても、相手にわかりやすくものを説明するときにはどうしたってトップダウンになります。読者に思想形成のプロセスを逐一追体験させるわけにはいきませんからね。

同一著者の史観に偏ったところから筆を進めてますよというお断りを先にしておきます。

この『ウェストファリア体制』は著者の主張の骨子が強く出ていてわかりやすい本です。まずはこれを読んでみて、この著者の考え方が自身に合うか合わないかだと思います。

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で、これがどんな本かと申しますと。

宗教戦争や魔女狩りに代表される「自分と考えの異なる人間は殺さなければならない」という考え方が当たり前だったヨーロッパが、17世紀中頃のウェストファリア会議をきっかけに「考えが違うからといって殺さなくてもよい」社会へと変わっていったのだと著者は言います。この考え方の転換に大きく影響を与えた人物が『戦争と平和の法』を書き記したグロティウスであると。

それまではいつ始まった戦争なのか、そもそもどうなったら終わりなのかもはっきりしないまま、相手が殲滅するまで戦いの手を緩めないうえにそもそも相手を同じ人間とはみなしていないので残酷な手段を用いることにもためらいがない、というのが当たり前だったといいます。

それでは悲惨な(宗教)戦争はなくならない、ならばこの殺し合いに一定のルールを設けましょう、というのがグロティウスの提案だと著者は述べます。

何を目的として戦争をするのか。平時と戦時を、敵と味方と中立を、そして戦闘地域と非戦闘地域、戦闘員と非戦闘員を明確にわけよと。

宣戦布告によって戦争を始め、敵が降伏したならば平和条約を結ぶことによってすみやかに戦争を終わらせる。

これによりその後のヨーロッパは、戦争は多々あれど以前のような際限なき悲惨な殺し合いは影を潜めていったと著者は言います。第一次世界大戦が終わるまでは。

そして第二次世界大戦以降ウェストファリア体制の考え方はものの見事に全否定され、すべてではないものの野蛮な時代へと逆戻りしてしまったと著者は嘆きます。

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ここ最近の風潮として「相手が間違っているなら、どんな手を使ってでも徹底的につぶしてよい」という流れがあるように思います。

週刊誌によるすっぱ抜き、過去の言動の掘り起こし、もはや文脈もへったくれもない言葉狩り、それらをもとにしたSNSや電話などでの執拗な抗議に嫌がらせ。またそれらに対し「いくらなんでもやりすぎだ」という人たちに対してすら矛先を向け攻撃を始めるという。

こんなことがこのまま許され続ける社会は、正直怖いと思います。

人によっては、不愉快だなとかねがね苦々しく感じていた相手がどんな形であれ袋叩きにされるのを内心痛快に思い、面白がっているふしがあるかもしれません。しかしその恐ろしい矛先が些細なきっかけから自分に向くことがあるとしたら?

その人たちの考える「正義」と私の言動とが、今一致しないだけならまだいい、過去の一時期に一致しなかったという、ただその一点の理由によってある日突然攻撃されるとしたら?

こんなの放っておいてよいはずがありません。どこかで線引きしない限り、先に見えてくるのは思想統制、言論封殺です。


何が文明的で何が野蛮なのか、を問い直した時、他者に対する多少の見下しや差別的な発言が実際にはいったいどれほど深刻な事態を引き起こしてきたというのでしょう。むしろ、私が絶対に正しいと言って譲らない人たちが、あいつは絶対に許せないというただ一つの理由から平然と行ってきた攻撃のほうが、歴史を振り返ってみてもよほど深刻で残酷な事態を引き起こしてきたのではないかと。

信じて疑うことのない絶対的な正義こそが野蛮。

だけど私たちは各々の正義から無縁でいられません。私にも私なりの正義の基準があります。相手にもあります。それが各々の人格の軸になっている以上、互いに互いの正義を手放す必要はありません。だからこそルールが必要になるのです。それこそが文明的なあり方のはず。

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こんな時代だからこそウェストファリア体制の考え方はもう一度見直されたほうがいいだろうと思い、このnoteを書き記した次第です。

私たちは一庶民で国家を背負う立場ではないけれど、個人間でのいざこざでも基本的なルールとしてはそれほど変わらないだろうと思います。


・考え方の違う人たちも私たちと同じ人間であり、私が最低限尊重されなければならないのと同じように、私もまたその人たちを最低限尊重しなければならない。

・考え方の違いゆえ利害のかみ合わないことも出てくる以上、時に攻撃し合わなければならないこともあるけれど、だからといってお互い、やっていいことと悪いこととがあるだろう。

・何に対するケンカをしているのか。このケンカによって何を解決させたいのかはっきりさせること。属性や人格に対しての攻撃など、問題点と直接関係のないことで攻撃するな。あと関係ない人を巻き込むな。


ウェストファリア体制の考え方を参照に思いついたルールをざっと書き出してみました。

そう、目的があるならば私たちは争っていい。だけどルールをわきまえて。滅ぼすことを目的としてはいけないんだよ、と。

よかったらぜひ一読してほしいです。世の中の捉え方が、過去の歴史の捉え方が、また少し変わりますから。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。