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短編 カリフラワーの姫君


その昔、世界はまるくて白く、果てしなくふわふわでした。

色という色が一つも存在しないその丘で、幼い姫君はひとり、暇を持て余していました。たっぷりと結い上がった黒髪にきらめく銀の光のティアラを姫君は見たことがありません。ただ両の手を、開いたり握ったり、ひっくり返したり戻したり、その肌の色だけをひとり、眺め続けていました。

「わたしはいつか、たべられる」

音の意味はよくわかりません。そよそよとした風のように、頭の中でおなじ音が繰り返されています。丘の景色とまったく見分けがつかないふわふわのドレスが身を包み、気づけばまどろみ、気づけば目覚めて両の手を虚空に透かし、その繰り返しが続くばかりの日々でした。

それなのに、なぜ、わたしはまだたべられずにすんでいるのだろう。

目覚めのたび、いつしかそう思うようになっていました。あれは幻なのか、いわゆる生まれる前の記憶というやつか。

私はカリフラワーが食べられません。口に運ぶことすら一度たりともできませんでした。他のものはなんでも食べるのに、かたくなにカリフラワーだけを拒む私に両親はほとほと困っていたようですが、それ以外におかしな振る舞いをするわけでもなく、かわいい一人娘、たった一つのわがままくらい大目にみよう、そう思ったそうです。

思春期にさしかかると白い光の記憶に抗うように原色の服を好み、眉も目鼻立ちも薄いつくりの顔を安く買い集めたパレットたちで彩り、ただ一つ、人に引けを取らないくらいに黒々とした豊かな髪を束ねることなく長々と揺らし。

私の素顔を知らずに声をかけてきた男性といつしかお付き合いをはじめ、とんとん拍子に話が進み気づいたときにはあの記憶に懐かしい、真っ白くてふわふわのドレスと、あの時世界に鏡があったならきっとこういうのだったのだろうと思われる小さくてきらきらした銀のティアラ、そしてドレスの下にこっそり隠れてた、ひとつの小さな命。

息子を産んで体が落ち着くと、急にカリフラワーが食べたくて食べたくてしかたがなくなりました。今では素顔の薄さもカリフラワーが食べられないことも知っている夫は、毎日毎日狂ったようにカリフラワーを買い求めては食べ続ける私の姿に驚きました。

その日は突然訪れました。すくすくと成長し、今や少しばかりの言葉を覚えた息子が、うたたねをしながら、こうつぶやいたのです。

「おかあさんはね、あしたたべられるんだよ」

どきりとしました。子どもの頃の記憶がすべてよみがえりました。ああなんということ。わたしはいつか、たべられる。私はそのためだけに命を与えられしもの。その日がくるのを、両手を結んだり開いたり、光の中に照らしてみたり、暇を持て余しながら、ただひたすら待ち続けていただけだったのだ。

いつから私はそのことを忘れてしまっていたんだろう。気づくと息子が私の目をじっと見つめていました。

「でもぼくがね、守ってあげるんだ」

息子はそう言うと再び目を閉じて寝返りをうち、そのまま何事もなかったかのようにまたすやすやと眠り続けたのでした。

息子はその日のことを覚えていないようです。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。