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2020/10/19-20(火)権利を与えられる人になれるか


昨日の続きを。

前々から思っていたこと。いわゆる「人権」と呼ばれているものすべてを、皆がみな主張しだしたらいったいどんな世界になるんだろうか、と。

きっとそこには寒々とした非寛容の世界しか広がっていないんだろうなあ、と。

でももし私たちが、私の、ではなく、誰かの「人権」をお互いに尊重しあえるのであれば、それはとても意義のあることだと思うのです。

ほしいものは皆同じ、安全と豊かさと尊重と。そして誰もが危険と貧困と侮辱からは無縁でいたい。

ほしがることは奪い合い。ほしがるもの同士はいがみ合うのが当然のこと。権利の本質が「誰かから私がほしがるもの」であるうちは、争いと分断は永遠に収まることはないのだろうなと。

だけど権利の本質が「私が誰かに与えるもの」であるとするなら。

私から誰かへの寛容であり、私への誰かからの寛容ではない。そしてそれは言うほど簡単なことではなく。

私が最も忌み嫌い憎む相手にも、寛容になれますか。与えられますか。

ほしがる側、もらう側ではなく、与える側、時には身の犠牲を強いられる側として、権利ということを考えたことがありますか、と。

それは子どもと親との関係にも似ていると思います。

権利を声高に主張している人たちを見るたび、ああこの人たちにとって国家というものは親であり、完全に依存しているのかもしれないなと。親だからこそ、子である彼らがどんなにひどいわがままを言っても決して国から見捨てられることはないと完全に甘えきっているのかもなと。

親としての立場から権利というものを論じていかない限り、その主張はどれもこれも怒りと落胆、そして思い通りにならない他者の排除というゴールにしかたどり着けません。

与える側から見た権利とは、往々にして身を裂き、自分自身の豊かさを犠牲にするものだ、ということ。軽々しいものではないと思います。

走り書きとして。

武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。