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映画を観てきた:『相撲道-サムライを継ぐ者たち-』


どの切り口から書き出すべきか、迷っています。

ドキュメンタリー映画です。取材時期は2018年12月から2019年6月にかけて。皆がまだぎゅうぎゅうの国技館で熱い声援を送っていた頃。

予告編でナレーターは言います。「彼らは全員、超人だ」。

映画の中で取り上げられているのは境川部屋と高田川部屋。前半は境川部屋と元大関豪栄道(現武隈親方)を中心に、力士の稽古風景、勝負に挑む力士たちの姿が描かれます。

同部屋の妙義龍の言葉を借りるならば「毎日が交通事故」な日々の土俵生活。同じく境川部屋の佐田の海もまた、取材期間の場所中、立ち合いのぶちかましで額を割るという、私たちから見ればおおごとな怪我を負ってしまいます。それでも平然と次の日も土俵に立つ佐田の海。あの傷をまさか縫ってなかったとは……

豪栄道はさらに壮絶で、場所中に腕を大怪我したにもかかわらず一切テーピングなしで場所を15日間務めあげ、しかも勝ち越しています。テーピングをしなかったのは相手に弱点を教えたくないからと。


後半は高田川部屋。竜電と輝の部屋であると同時に、私にとっては元安芸乃島の部屋という思いのほうが強いです(安芸乃島の相撲が大好きでした)。こちらは竜電を中心に、どちらかといえば力士の日常に重点を置いて描かれていた印象です。取材時期がたまたま竜電の結婚の時期と重なっていたのも大きいでしょう。

取材に答える高田川親方の目の奥が、未だに鋭く、闘う目であったことがとても印象的でした。と同時に力士たちをどう育てたいかを語る目は暖かく。昔のような拳骨で言い聞かせる時代は終わった今、高田川親方だけでなくどの親方衆も試行錯誤されているのだろうなと思わせる一幕でした。

竜電、取り口に派手さはないけれど地力を感じさせる誠実な相撲を取る力士だと私は思っていて、この映画でもその人となり、黙々と稽古に励む姿が描かれています。竜電は最初の出世自体はとても早かったのですけれど股関節の大怪我で新進気鋭の関取から一転、序ノ口まで陥落しており、壮絶な這い上がりを経験しているのです。


豪栄道、竜電がそれぞれ後輩力士に向けてのメッセージを送っているので、これはぜひ劇場で。

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「相撲道」を見終わり、様々な力士のこれまでに思いを寄せます。

たとえば、遠藤。場所中に膝の大怪我をして、とてもじゃないけど休んで医学的にしっかり治したほうがいいと、私だけでなく多くのファンが思ったことでしょう。ですが遠藤はそうしませんでした。出場し続けて、そして、負け続けました。

今ならなんとなく分かる気がします。なんで強行出場し続けたのか。膝の怪我との戦いではなく、痛みや恐怖という自分の心との戦いをしてたのかもしれないなと。遠藤はそれを「逃げ」だと捉えたんじゃないかと。

遠藤はそれこそ昔ながらの「土俵のケガは土俵で治す」を実践し続け、ケガと共存し続けた結果、数年かけて克服してしまうのです。


たとえば、琴奨菊。残念ながらこれを書いている14日に引退の意向を固めたとの報道がありました。琴奨菊は優勝時を含めた大関在位中よりも陥落後の土俵のほうが印象深いです。

ある程度年齢を重ね在位期間もそれなりにある大関は陥落が決まると引退を決意することが多い中、琴奨菊は現役続行を選びました。それまで取組前に行っていた派手なルーティンを封印し、猪突猛進、前へ前へのがぶり寄りという琴奨菊の相撲を、勝っても負けても取り続けました。幾度となく立ち合いの変化で突き落とされたとしても。

勝つときはがぶって寄せる琴奨菊の相撲、負けるときは出たところを突き落とされるかゴロンと転がされるか。

全取組を観ているわけではありませんが、星を拾うためだけの相撲を取っている記憶が、少なくとも大関陥落後の琴奨菊にはありません。

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痛いから休む。このままじゃちっとも治らないから、休む。ケガを治すことが先決だから、休む。ほら世間の常識だってそのほうがいいって言ってくれるじゃないか。次の場所から頑張ればいいんだから。

今はいくらでも言い訳ができる時代です。インターネットの発達によって無関係で無責任な人たちの発言がそれなりの影響力を持って飛び交うようになり、どんな考え方をしていても一人ふたりは応援してくれる世の中です。それこそ今なんて「みんながやさしく振る舞う」時代。本人のことは本人にしかわからないというのもまた事実なので。

しかし己の強靭な精神力で言い訳をすべて排した人が、「でもこれしかない」と、頭ではなく心の声がそういうのなら、それを貫くことは尊いことだと、今の私は思います。

それを私たちの頭では「非常識」というけれど、相撲を取れているというだけであの人たちすでに私たちの常識の範囲を超えているのだし、私たちと同じ物差しで測っていいものかどうかと、常々思ってはいたのです。


あと最近思うようになったのは、相撲には「負けたくない相撲」と「勝つための相撲」とがあるっぽいなと。

負けたくない相撲というのは、とにかく勝ち星が拾えればそれでいいってやつです。勝負への執念と言い換えることもできなくはないですけれど、勝負というより、うーんこれただ「負けたくない」だけじゃないかなって思える相撲が、ちらほらあります。十両落ちたくない、幕下落ちたくないってやつ。いやそれならまだわかる。そんなに切羽詰まってなさそうな番付の力士たちまで一枚も番付落としてなるものか、的な。

昔は怪我人や引退間近のベテランがよくそういう相撲を取ったものですが、最近はベテラン勢のほうが「勝つための相撲」、今よりさらに上を目指す、力強くて内容の濃い相撲を取ってるんですよね。若い人のほうが目先の負けにびびってるのか、勝てればなんだって良いと思ってるのか、すぐ引いちゃうなあと。引きによる決着が多いのは押し相撲が増えたからというのも大いにありますけども。

この人たちにとって相撲を取る意味とは何なんだろうかと首をかしげたくなる力士が、まれにですが、いますね。

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この先、相撲はどういう未来を進んでいくのでしょう。

トーナメント方式のアマチュア相撲では負けることが許されません。しかし15日間かけて戦う大相撲では負ける日があることが大前提です。それこそ負けることが次につながっていきます。

勝つことがより重要なのか、強くなることがより重要なのか。それぞれの価値観の中で、ケガや負けとどう向き合うのか。

時代の要請に合わせた「安全なスポーツ」としての変容も視野に、形式として、伝統として継承されていくことを願うのか、それとも各々の「相撲道」、我々の常識を超えた相撲独自の精神性を、今や制約だらけの世の中で後世の若者にどう継承していくのか。

後世に残したいものは、果たしてどちらですか。




武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。