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2022/9/2(金)教育と洗脳の違い


 旧〇一協会の話も国葬の話も一部の人たちにとっては自民党潰しの道具でしかないんだろうなあと。

 おりしもここ数カ月間の好奇心の方向が「戦後日本政治と右翼フィクサーたち」に偏っておりましてそれ関連の本をちまちま読み重ねておりました。
 日本人の歩みからすっぽり取り除かれた1940年から70年あたりまでの空白期間。このあたりの清濁(ほぼ濁)どろどろの歴史をまったく知らずして日本の今後を議論しても不毛なんじゃなかろうかいう予感が漠然とあったからなんですが、若い人にもぜひこのあたりの近現代史を陰謀論やポジショントークからではなく、あくまでも表に出ている史料をベースに書かれた書物で学んでもらいたいとつくづく。

 えっと今日はそういう話を書きたかったわけではなく。

 今回の件で私たちはカルトの怖さをつくづく再確認させられているわけですが、でもそうは言っても本人たちは洗脳されているとは少しも思ってないわけですからこの堂々巡りに暗澹たる気持ちにさせられるのです。

 そもそもこの手の話がいつも混乱するのは洗脳されてる本人を被害者と決めつけて議論するからだと思うのです。残念ながらそうではないよね。
 客観的に見てもわかる被害者なのは、大事な家族や知人をカルトに奪われ、本来ならば彼らにすべて注がれるはずであったまっとうな愛情や財産をカルトに根こそぎ奪われた周囲の人たちなんですよね。
 本来は愛情であったものが虐待に変わり、山ほどの財産は同じくらい山ほどの借金となるのです。恐ろしいこと。

 そうなんだよなあ。
 本人たちは真実を教えてもらったのだと思ってるのだよね。
 でも第三者から見れば洗脳でしかない。

 ああ、そうかあ。
 教育と洗脳って、現象としては同じものなんだろうなあ、と。
 実はなんら見分けがつかない。

 二つを分けてくれるものは動機ですらないのです。善意から行われる洗脳もあるでしょう。悪意からなる教育ってのはちょっとわかんないけど。
 むしろ洗脳の大半は善意から行われているような気すら。

 発酵と腐敗ってあるでしょう。
 あれも実は同じ現象なんですよね。現象の結果たまたま私たちに有益なものが発生したら発酵と呼ばれるのであって、有害なものが発生するようなら腐敗。
 教育と洗脳も同じなんじゃないかと。

 発酵と腐敗の関係と同じであるなら、教育と洗脳を分けるものもまた結果かもしれません。
 教えた人がいずれ衰退し、教えられた人が豊かに栄えるようであれば、それは教育。
 教えられた人が弱っていく一方で、教えた人がなぜかいつまでも栄え続けるようならば、それは洗脳。

 教える側が養分となるのか、教えた相手から養分を奪うのか。

 でもそれとて本人にはわからないのですよね。
 本人の周りにいる人たちがその教えによって前よりも幸せになっているか不幸になっているか。それだけが客観的指標なんだと私は思います。

 そのことだけ今日はどうしても書きたくてね。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。