見出し画像

頼まれてもないのに。その40(正義と暴力はセット)


書く前から「絶対共感されないよな」とわかっている内容ってどうしてもあります。そういうのを書きまくったあげく、ついに無視という形での自然淘汰、ここからの自発的放逐を余儀なくされている私ですけれど、もうここまでくると病気だよね、それでも書きたくて仕方ない感じになってます。

今の風潮に寄り添えない。今のご時世に適応して生きている人たちのご機嫌を取ってまで支持を得たくない。同じ思いを抱えて悶々としている人、私だけじゃないでしょう? 

でも言葉をうまく選べない、だってかなり慎重に言葉を選ばないと、政治的正しさという正当化された暴力の前に私たちはいとも簡単に居場所を失ってしまうもの。発言は慎重に慎重を重ねなければならないし、それでも攻撃されてしまうのだから選択肢はただ一つ。ならば沈黙のみ。

反社会的な発想の人たちと一緒にしてもらっても困ります。そんなわけないじゃない。だけどどこか紙一重でもあるのも確か。その違いをしっかり自覚して説明できるだけの言語能力がないと私たちは本来貼られるべきではない不本意なレッテルを一方的に貼られてしまいかねない。

しかしそうやって人々の素朴な肌感覚を意識の高い人たちが片っ端からパージしていった今、いったい何が残っていますか。

私は思っています。今の政治的正しさばかりが強調される世の中では、むしろ反社会的な人たちを支援しさらに強大に育成するだけだと。

反社会的な人たちを本当に許せないと思っているなら、私たちの信じる正義を侵害する集団や勢力が存在するというなら、政治的正しさ以外の方法で私たちは本気で向き合わなければいけないのだけれど。

それが不可能であることも私たちは知っていて、その無力感と向き合いたくないからこそ、ありもしない幻の自己効力感でお茶を濁しているのでしょう。

なぜ不可能か? 私たちには正義を行使するための「暴力」がないから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

政治的正しさという言葉が自分でネタ晴らししているように、正義というのは相対的なものです。その相対的なもののうちの一つを「政治的な」という但し書きで絶対化しているわけですから、もうその時点で自己矛盾なんです。

相対的な正義の一つに過ぎないんですから、こっちだってそんなもん無視してやりゃいいだけじゃないの、と笑い飛ばしてやりたいところですが、そうはいかないからこちとら困っているのです。

なぜ政治的正しさが絶対的な正義という立ち位置に現在君臨できているか。簡単です。暴力とセットだから。

暴力って武力だけじゃないですよ、言葉の暴力だってそう。人格否定。大勢で圧力をかけ、経済的な基盤を奪うことだって暴力。正義を行使するためのあの手この手の暴力を、こともあろうに民意を背負った政権というものが黙殺していたり、あるいは支援すらしていたりする。

理論武装もない、弁論技術だって鍛えてない、そんな丸腰の庶民がそんなものに勝てると思いますか? いやいや備えていたところで一人で戦えると思いますか? 戦う前から敗北決定ですよ。むしろ戦うほうがバカ。

正義は暴力によって絶対化するのです。

そしてどの相対的正義にもそれなりの必然的な理由があるからこそ、そのいずれが絶対的な立ち位置を得たとしても、論理的に反論することはとても難しいものです。

つまりそれぞれの人が所属する居場所の一つ一つにそれぞれにとって妥当極まりない唯一無二の正義が必ずあり、ある居場所の人たちにとっての正義は異なる居場所の人たちから見れば到底受け入れられない、誤った正義になります。

それこそ習近平やプーチンの正義は私たちからしてみれば不都合で迷惑なものでしかないけれど、それぞれの国をどう維持し成長させていくかという彼らの立場からしたら、やはりこれこそがまごうことなき正義なわけです。

問題は、各々が正義を実行するには、己の掲げる正義をてっぺんにするためには、最終的には暴力以外の方法がない、ということです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

お相撲さんやプロレスラーにケンカを売ろうとする人は基本的にいません。それは見た目からして明らかに「やられたら負ける」のがわかるから。

女性が男性から嫌がらせを受けやすいのはこの逆で「どうせやり返せない」のがわかっているから。

目の前の相手が強いか弱いか、結局のところ我々は野生の勘で瞬時に判断し、態度を調整しているわけです。

自分一人では弱いなと自覚している人は、女性なら男性の力を借りたり、女性の中でも比較的強いボス的女性を中心に集団を形成したりします。警察や弁護士の力をいつでも借りられるようにしておく、なんてのもあるかもしれません。

もちろん自分自身を鍛えられるならそれが一番いいわけで、武道を習得したり、知的武装をするためにより高等な学問を修めたり。ほとんどの人が自覚してないと思いますけれど、知的な能力の高さもまた、暴力なんですよね。(余談ですけれど女性こそ学問をすべきだと私が思うのはそういう理由)

基本的に暴力というものは、暴力という言葉が悪いと思うんだけれど、自分自身を外敵から守るためのものだと思っています。第一義的にはね。

自分自身を守ることは周縁にある家族や仲間を守ることにもつながります。暴力とは大事な人たちを守るための、最大に強力な防衛手段です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ところがですね、こうして己にまとった「暴力」をささいなことで振りかざすことで人々を恐怖に陥れる人間もまた存在するわけです。

暴力のもう一つの使い方。それは、支配。

暴力によって自分より弱い人間を強制的に従わせ、自分自身の生存にのみ有利な社会を構築する。

私たちが暴力を嫌うのはこちらの使い方をする人間がどうしても一定数いるからです。これやられるとひとたまりもない。

唯一の対抗策は、より強い暴力によって彼らを逆に従えること。

つまりはそれがないのなら、もしくはそれ以上の暴力を持っていても使っちゃだめだ犯罪ですよというのなら、私たちはこの「暴力振るったもん勝ち」の人間や集団にされるがまま、彼らが死ぬか滅びるまで泣き寝入りするしかない、ということです。

先ほど女性は学問を修めるべきだと書きましたし、知的な暴力は己の身を守るにはそれなりに有効ではあるという実感はあるのですけれど、やはり腕力的暴力には太刀打ちできません。腕力でやってこられたら終わりです。

男性同士、集団同士、国同士だって同じで、そりゃある程度までは知的暴力の攻防だけでもやりあえるでしょう。だけど相手が本気で「こいつ潰すしか俺の生き残る道はない」と思い詰める段階になれば、当然最後は武力対抗になってしまうわけです。

世界中どこ見ても先進国以外は武器持ってる集団が一番強いんです。文民何もできてないじゃない。

逆を言えば軍人さんたちが矛を収め、理性でもって己の暴力を抑制し文民支配に甘んじている国こそが先進国だということでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

暴力に対抗する方法は二つ。自分自身がより強い暴力を持つか、相手の暴力を根底から奪い、禁止するか。そのいずれか。

自分の暴力も認め、相手の暴力も認める。これが大人の関係。対等。この関係が保てる相手とはおそらく武力対決にならず、知的な暴力の応酬だけで事を収めることができるはず。つまりそれこそが外交で、だから外交は一滴も血を流さないくせに限りなく血なまぐさいものです。

ところがある種の状況におかれてしまうと、なのか、己の欲望を抑えきれないからなのか、なのか、そこは人それぞれ、ケースバイケースなのだろうと思うのですけれど、暴力の不均衡状態を人工的に作り出すことによって相手を一方的に支配しよう、という場合があるようで。

一番効率が良いのは、支配したいと考える相手の暴力を根こそぎ奪い、他方自分たちは暴力の量と質を最大限に高めていく、という方法。

さてこれを現在進行形で行っているのはいったいどこの国でしょうか。そしてそれをアホみたいにいやいや全くもってその通りですねと受け入れている国はどこでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、正義の話に戻りましょう。

私たちから見ればどれほど身勝手で狂った動機であっても、その人の頭の中ではまごうことなき正義。だから犯罪者は厄介なのです。

犯罪者は己の正義を暴力で実現できたからしたというだけの人たち、という見方をしてみるのはどうでしょうか。周りの暴力より自分の持ってる暴力のほうが上だったから、己の正義に従って行使したというだけ。

母親を蘇生できなかったからというありえない理由で主治医を殺害した例の男性だって、それが彼にとっての正義だったからでしょう。

ただし通常は大声でわめいて暴れて終わるだけのところ(それに対してすら一切の暴力を封じられている我々にはなすすべがなく、十分に有効打となってしまうのですが)、恐ろしいことにさらに犯人は猟銃を持っていたため彼の正義は実行されてしまった。

つまり暴力さえ備えていればいかなる正義も一方的に実現されてしまうというわけ。正義それ自体を裁くものは自分自身の理性以外ないのだから。

犯罪者を取り押さえ収監できるのは、彼ら以上に強い暴力を警察や各国政府が持ってくれているからにすぎず、私たち庶民は彼らの抑制に対し一切何もできていません。事件が実際に起きてしまうまで何もできない。予防ができない。

私たちにも正義があります。身勝手な理由から人の命や財産、尊厳を奪う、反社会的な行動は絶対に許さないという正義。だけどそれを私たち一人一人の力で実現させることはできません。

私たちは一切の暴力を奪われている丸腰の身だから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一切の暴力を奪われている、これは正確な表現ではないかもしれません。外部からの要請がなくとも私たち自身、自らの理性でもって暴力を行使する権力を放棄しているという部分も大いにありますから。

私たちの多くは暴力を持っていても使う気がありません。禁止されているからではなく、そもそも使いたくないんです。

暴力を使った時点で、目の前の人と対等じゃなくなるもの。

この感覚は日本人ならでは、と得意げになりたいところですが、たぶん違いますね。ほとんどの人が日本人と同じような環境に育てば、常に暴力と緊張をはらむ支配関係よりもゆるやかに対等な共存関係のほうがずっと快適で発展的だということに気づくはずで、対等な人間関係の維持にやみつきになるはず。というかそういう人たちが多数派で影響力を持っていた国から先進国になっていったんじゃないのかね。

じゃあなんで対等じゃなくなるのが嫌なのか。

いろいろ理由はあると思うんですが一つ大きな要素を占めているように思うのは、少なくとも現代の日本人として生まれた私たちって、己の中にある正義そのものを根底的に疑い続けている気がするんだよな、って。

つまり正義なんてものは一時的で相対的なものでしかないということに、ちゃんと気づいているという。

一人一人の中に正義はあるんです。あるけど、絶対じゃない。人それぞれの事情があることもわかっているから、己の正義を押し付けることに対する心理的な抵抗感が根深い。

日本は八百万の神様の国というのも大きいと思います。あれもこれも神様だもの。唯一絶対の信仰自体が基本的に好かれない。

とにもかくにも自分自身の正義を行使することにためらいがある人たちにとっては、普段の生活に暴力など一切必要ないのです。禁止されていようがいまいが、そもそも使いません。

問題は「持っているけど使わない」のと「根底から奪われてしまい、一切の行使が許されない」のとは全く異なるということです。

持っているけど使わない、のルール内では、ルールを破って己の正義を振り回す人間を専守防衛で対応することができますが、根底から奪われてしまっていて一切使えない場合、私たちはルールを破ったもの勝ちの無法者たちによっていいようにされてしまいます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このあたりが本当に難しいさじ加減。

無法者は何をどうきつめに対処したところで、どうせルールを破って己の正義を実現させにくる。彼らに対する締め付けをきつくしようとすればするほど、自分たちが自衛のために持っていなければならない暴力まで、一つ、また一つと手放すだけに終わるという悔しいジレンマ。

気づいたときにはほぼ丸腰、何も手出しできないどころか今に言論まで封じ込まれると思いますよ言論もまた暴力だから。

暴力の取り上げとは暴力の寡占でもあります。こういうものは往々にして同時進行。特定の正義を絶対的なものに据えたい人たちがこうして暴力を独占してしまえば、もはやすべては一丁上がり。

えっ、その時代その時代での政治的正しさにさえ従っていれば私たちの生活と安全は保障されるんだからそれでいいじゃないの、って?

そうですねそれも一つの選択肢です。私たちの祖先が時に己の命まで捨てて守り繋いできたものよりも生物としての命のほうが大切。それも正しい選択だしたぶん今後はそうなっていくんでしょう。

その「生物として正しい」はずの選択が何をもたらすか、ちょっと想像を巡らせばわかるようなものですが、その答えが目に見えてくるその日まで楽しみに待ちましょうか。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。