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頼まれてもないのに。その28(読書録:ジョージ・オーウェル『動物農場』『1984年』)


久々に更新した「頼まれてもないのに。」本日は読んだ本の話を。

『動物農場』と『1984年』。古典として有名なこの2作品がkindle unlimitedのラインナップに入っていた(2021年2月時点)ので、大変遅ればせながら読む機会を得ました。

これから読まれるという方へのアドバイスとしては、『動物農場』のほうを先に読むことをお勧めします。寓話として描かれた短編ですのでとっかかりやすい上、精神へのダメージも多少はやさしいです。『1984年』は長編小説なだけでなく肉体的・精神的に堪える描写が続きますので、先に『動物農場』を読んで多少の免疫をつけておくほうが、これらの描写に耐えやすくなるのではないかと思われます。

ええ。読んでみての率直な感想は「どちらも精神的にきつい」でした。とりわけ『1984年』はPG-12って感じ。いやR-15かもしれない。

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どちらも共産主義社会の恐怖を描いた小説です。共産主義=全体主義というわけでは必ずしもないはずなんでしょうけれど、共産主義が隠し持つ性質上、ほぼ間違いなく全体主義に移行するということなんでしょう。

まずは『動物農場』。1945年発表。動物を家畜として支配し、搾取して利益をむさぼる農場主の人間に対し、ある日ついに家畜たちが立ち上がり、農場主を追い出してしまいます。動物たちによる平等で豊かな農場を作るべく、家畜たちの中で最も賢い豚たちを中心に新たな一歩を踏み出したはいいものの……という寓話。

未読の方にもぜひ読んでもらいたいです。読めばお気づきになると思うのですが、はっきり言って最初は誰一人、もとい、誰一頭として悪意なんか持ってないです。なかったんです。なのに、このラスト。

支配側に立つということは、権力欲というものは、こうも簡単に人、もとい動物を狂わせるということか。ぞわぞわしますよ。


この寓話を読んでもう一つ考えたこと。家畜たちは結局のところどちらのほうがよかったのだろうかと。

あのまま一方的に人間に支配されたままのほうが良かったのだろうか。いや、家畜たちの勇気ある決断と最初の一歩が確かに実を結んだ、だが思っていたのとは違う場所にたどり着いてしまった現状で、やはり良しと考えるのか。

人間に支配され続けてさえいれば経験することのなかったような苦難と恐怖を家畜たちは経験することになりましたが。

もしかして、これって運命を自ら選択してしまったことへの罰なの? その時点においてはそれこそが最善の選択肢だったはずなのに。だったら彼らはいったいどうしたらよかったんだ? 何もしなければよかったということ?

以前「私は『フォレスト・ガンプ』が嫌いです」という記事を書いたのですが、そこにもつながってしまう問いです。

共産主義を批判するのはたやすいです。しかしじゃあなぜ人々は共産主義を選んだのか、人々が現在置かれている悲惨な状況をよくしたい、変えたい、救われたいと願った時、共産主義以外の選択肢が、じゃあその時点であったのか、ということは、私たちは常に考え悩まなけばならないことだと思います。

「何もしないことこそが最善の手」と達観できるほどの根拠も自信もまだありません。人はしかるべき時には勇気ある決断を下すべきだと、それでも私は信じたいのです。

その一方で安易に動いてしまったがために「気づいたときには本当に身動き一つ、何もできなくなってしまった」未来という展開もまた確実に存在するということも、私たちは心しておかなければならないと思っています。

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『1984年』は1949年発表。

『動物農場』とは対照的に、こちらは誰にでも積極的にお勧めできる本じゃありません。読み始めたはいいものの前半で挫折される方も多いんじゃなかろうかと思われる展開がしばらく続きます。だからといって前半部分を乗り越え後半部分にたどり着けたからといって我々読者が幸せになれるかといったら。

つまり最悪の読後感こそウエルカムむしろゾクゾクしちゃう的なマゾヒストにしかお勧めしづらいというかなんというか。映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をお勧めするのに似た申し訳なさを感じます。

それはそれとして。

『1984年』を読むと、自由にものを考え言える今の日本や多くの先進国がどれほど素晴らしく恵まれた状態なのかがよくわかります。いやそれこそが、様々なものを奪われても人間を人間たらしめるであろう最後の砦といいますか。

左の共産主義も右の国粋主義も、宗教を至高とする人たちも完全なる平等と多様性こそが理想だと掲げる人たちも、自らが正しいと思う主義それだけを純粋に突き詰めれば、皆必ず同じ場所、全体主義にたどりつくんでしょうね。

だけど彼らが正しくないと思うことに対し「だけど私たちは正しいと思う」と言うことが許されさえしていれば、私たちは一方に傾きすぎた世の中のバランスをいつでも取り戻すことができるのでしょう。

私たちにとってはその可能性が手元に必ず残されているということが大事なのです。

でもそれすら完全に封じられたら?それが『1984年』の世界です。

主人公は言います。

自由とは二足す二が四になると言える自由だ。これが容認されるならば、その他のことはすべて容認される。

しかし主人公の置かれた世界は、口にするどころか、考えることすら許さないのです。

本当に怖いのは全体主義的風潮そのものではなく、暴力(抗議の声のしつこさ大きさを使って職を奪い経済力を失わせるというのもれっきとした暴力だと私は思います)による言論封殺だということを『1984年』は示唆しているように思われます。

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20世紀というのは壮大なる社会実験の世紀だったのだろうと思います。かつてないほどの数の人たちが自然災害ではなく人の手によって無慈悲に殺されていった時代でした。日本ではなぜか国粋主義的なファシズムばかり取りざたされますが、共産主義による悲劇はそれ以上に多いです。これらが日本ではなぜほとんど取り上げられないのか不思議なくらいです。

21世紀が前世紀に起きたことの分析をおざなりにしたまま、ただやみくもに言論封殺を組み合わせることがあれば、テクノロジーの飛躍もあいまって今度こそ取り返しのつかないところに行ってしまう恐れは大いにあると、心から危惧します。

何度でも言います。怖いのは主義や理想そのものではなく、言論封殺。自由な言論を封じるような流れだけは、主義主張を超えて人間が人間であり続けるためには、何があっても阻止しなければならないと私は思っています。






武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。