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頼まれてもないのに。その2(日常と相撲とラジオと)

ある日突然、マスクが買えなくなった……今起きていることへの「ただごとではない感じ」はそうやって始まりました。

テレビをつければいつだって、困り顔の人たちが不安そうにインタビューを受け、カラフルなパネルには日に日に増えていくだけの数字が並べられ、世界の様子が映し出されてみたところで、どこも同じように戸惑いの表情を浮かべどうしていいかわからない人たちに溢れている……それがもうこの連日、いつ見たところで大して変わらない、いやそれどころか、少しずつ状況が悪くなっているのすら伝わってくる……不安、不安、不安。

もともとテレビに頼らない生活をしている私ですら、こうして徐々に心が閉塞していくのを感じるのですから、テレビが日常の人たちの心のすさみようはいかほどかと思います。

テレビという媒体自体が「日常」や「平凡」とは相容れにくい性質があるのか、異常事態を報じるだけで、必要以上に大げさに「異常である」ように見せてしまいがちなのかもしれません。手短に伝えるため不要なものを最大限切り捨てて編集された映像に、ある種の空気感を共有させるためにわざわざ付与されたBGM、それらが異常さをさらに大きく演出し「テレビ中毒」と化した人々はその強い刺激を嫌うどころか「これでは足りない、こんな平凡なはずはない、もっともっと」とより分かりやすく刺激的な報道を期待する……そしてそれにテレビは応えていく……暮らしにそんなものを求めていない私たちはさらにテレビから遠ざかっていくのですが。

この1か月を通して思ったことは、

「情報は必要だけれど、同じ情報なら二度いらない」

ということと、

「情報は欲しいが、様々な情報にともなう人々の『感情』はいらない」

ということでした。そしてなによりも、

「それでも日常は続いているという安心感」

これに飢え始めていることに気がついたのでした。トイレットペーパーやティッシュペーパーがないことに困っているのではないのです(常日頃多めに買うようにしていますので)。トイレットペーパーやティッシュペーパーの棚がいつ見ても品薄であるというこの「異常事態」が、気にしないようにしていても着実に私の心を蝕んでいるのです。

「心を守ること」

これが私の第一目標となりました。

そんな中、私の好きな大相撲が先日無事千秋楽を迎え全日程の15日間を完走いたしました。観客を全く入れず、厳重に感染予防対策を施した上での開催、さぞ大赤字だったに違いありません。それでもあらゆるイベントが中止となったこの時期、NHKをつければいつもと変わらず大相撲が見られたというのは、なんという日常、なんという安心感だったでしょうか。ただこのまま無観客での開催が続いてしまうと興行として成り立たなくなってしまうのではないかという恐れもあり無観客であろうとも次の場所もぜひという身勝手な要望はできないと思っていますが、春場所の開催、思っていた以上に本当に有り難かったです。

そしてもう一つ「日常」を実感させてくれたもの。ラジオです。

ラジオの、いい意味でのマンネリ感。とくにかわりばえのしない雑談。季節の話。必要最低限のニュースなら定期的に差し込まれるラジオのニュースだけで十分です。それ以外は、もはや聴き慣れたパーソナリティがリスナーから送られてきたメールやツイッターをネタに、話をしたすきから忘れてしまうくらいに軽い話をとりとめもなく話しているのです。でもそれがいいのです。無責任かつ無難な世間話。いわば「知らんけど」。

そうやって今日も「いつもとおなじ」を続けてくれている誰かのおかげで、平凡な日常が続いている。私たちの日常が、守られている。

これから先、どうなっていくかわからないけれど、私たちに今できることはただ一つ。日常を続けよう。平凡な日常を、守ろう。

さあ今夜もまた、ひとつおいしいご飯を炊くことにしましょう。


武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。