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頼まれてもないのに。その30(映画鑑賞録:『ミッドナイトスワン』)


『ミッドナイトスワン』観てきました。第44回(2021年3月)日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を獲得した草彅剛が主演を務めた日本映画です。

これまでの私は草彅くん主演の映画もドラマもまともに見たことがなく、記憶にあるのは「一本満足バー」の奇っ怪な踊りしかなかったものですから、90秒予告編の草彅くんに度肝を抜かれたわけです。

あの予告編を見た時点で、ああこりゃ泣くなと覚悟して映画館に行きましたけど、はい、泣きました。劇場の空気的にも、泣いている人が他にも結構いたんじゃないかな。暗闇っていいよね、泣いていてもはっきりとはバレないから。

いわゆる「演技派」が脇を固めた映画ではないと思うのですれど、一人一人の演技が、なんというのだろう、ものすごく「伝わる」感じなので、気になっているけど見に行くかどうか迷っているのであれば、見て損はないです。おすすめです。

なお男性にとっては一部ショッキングなシーンがあるのできついかもしれません。女性は大丈夫だと思います。

以下、バリバリのネタバレになります。観てない人、これから観ようとしている方とはここでお別れ。

では。




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ここからは私個人の感想と考察であり、映画の作り手さんや演じ手さんたちが意図したものから大きく逸脱したことを書いている自信がたっぷりあります。この映画をすでに観た人たちから見ても、それは掘り下げすぎだと思われる部分、あるいは不快に思われる部分も大いにあると思います。

それを踏まえたうえで、この映画からそういうことを考えた人もいるんだなあ、くらいの距離感でこの先をお読みください。

あと完全にネタバレしてます。ネタバレしないと書けなかったもので。すみません。


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この映画には様々な女が登場します。

中でも主人公の凪沙、いとこの娘一果、いとこであり一果の母である早織、一果の友達りん、りんの母。この5名。

映画の主人公は当然ながらトランスジェンダーの凪沙ですが、物語は終始、一果という少女を中心に回っていきます。つまり真の主人公は一果であり、凪沙も早織もりんも、一果のサクセスストーリーを形づくる一要素でしかないとも言えます。

何を言いたいかというと、凪沙もりんも、一果の養分として果てていった。一果の中に吸収されていった。そして映画で描かれている限り、凪沙もりんもその運命を心の深いところで受け入れているように、残酷な結末であるはずの出来事をどこか高みへと昇華させているかのように思われたのです。


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りんについて。

りんがなぜ死ななければならなかったか。賛否は分かれると思います。私も正直、死ぬ必要はなかっただろうに、と思いました。彼女のその後を、自立して生きるストーリーを示唆してほしかったなと。だけどりんにとっては、一果が自分の代わりに、自分以上に羽ばたいていくことが分かった以上、他の選択肢はなかったのかもと。

りんという少女をどう解釈するか、観た人の間でもかなり意見は割れると思います。私は、生まれながらにしてりんが背負わされていた業を一果に譲りわたしたのかな、という感想です。

りんの業、それはりんの母が叶えきれなかったバレリーナとしての夢を実現すること。りん自身もバレエが嫌いなわけではなかったけれど、己の限界にどこか気づいていたふしがあります。それが偶然、一果という女の子と出会い、その才能に嫉妬も覚えながら、彼女にすべての夢を託して、重荷を下ろし、自身は空っぽになって消えてしまう。

りんの母が娘を自分の分身、叶えられなかった夢の継承者として育ててしまい、自らはいつまでも少女のあどけなさを維持し続ける一方で娘を空っぽの容器にしてしまったのとは対照的に、りんは一果にすべての夢を譲り渡すかのようにして去っていきました。それこそが私に与えられた運命でした、とでも言わんばかりに。

業は重い。だけど業があったからこそりんはりんとして生きてこられた側面もあって、肩の荷を下ろすことは彼女の存在意義を消失させてしまうことでもあり。

そこから新たに自分自身の生きる道を一から模索し始めればよかったと思うのですが、りんは一つの仕事をなし終えたかのように軽やかに空に舞ってしまいます。

間違いなくそれは悲劇以外の何物でもないのですけれど、りんの母がいつまでも母子密着のまま一人の夢見る少女であり続けたのと対照すると、女としての人生を堂々と全うしたようにも見えてしまうのです。


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凪沙と、「母になること」について。

この映画には対照的な3人の母親が登場します。


一果の母、早織。シングルマザーとして娘を育てるものの、心身ともに限界を迎え、娘をネグレクト状態にしたどころか、感情のままに手を挙げてしまいます。娘自身の成長と凪沙との一件を経て娘との安全な距離感をついに手に入れ最後は母親らしく振舞えるようになりますが、それでもお互いが母娘として傷つかずにいられるためには、日本と海外という物理的距離を必要とするようです。

確かに血はつながっているし、一果も実の母親は早織だと本能的に理解しているのも間違いなく、この切れない血縁関係は互いが生きている限り続くのですけれど、この母娘関係にそれ以上のものというのが、残念ながらあまり感じられません。お互いにお互いの人間性を理解し、尊重し合いましょうという感じ。基本的にこの二人の関係は対等なんですよね。というより、一果の心が勝手に大人になってくれたという、ただそれだけのおかげでかろうじて成立しているような。

リアルな母親業。


りんの母。娘を可愛がっているように見えて、その中身は腕にいつも抱えている猫ちゃんへのそれとそれほど変わらない。娘の人格を愛するのではなく、自分が叶えられなかった夢を代わりに叶えてもらうための、愛。つまりは自己愛の延長。

さきほど「養分」という言葉を使い、りんと凪沙は一果の養分になったという表現をしました。その逆で、りんの母親はりんを養分にしていたように見えます。母と娘の役割が逆です。りんのために母がいるのではなく、母のためにりんがいるという、ねじれ。

娘の夢に投資しているように見えて、実は自己実現の道具としてしか娘を見られない。自分がこの世で一番、娘のことを誰よりも理解していると勘違いしている。

でもこれも母親。


そして凪沙。

男の体を持って生まれてきてしまった女。生まれながらにして産む選択肢を全く与えられていない女。おそらく、ゆえに子どもを憎む女。

そんな女が一果との暮らしを通して、一果の母として生きたい、守りたいと決意し、なけなしの金で性別適合手術に踏み切ります。

中学を卒業し、再び上京した一果が凪沙と再会するシーンは、衝撃的ながらも、母になるということの負の一面を象徴するシーンなのかもしれません。

生物学上の母になるだけならば、産むだけならば、上の二人を見ていれば実はそんなに難しくないことなのかもしれません。だけど母になることを選択するということは、ほとんどの場合は気づかれていないかうまく回避できているだけで、本来は大きなリスクをしょい込むことでもあることを示唆しているように思いました。

今でこそ出産で命を落とす日本人は少なくなりましたが、医療体制の未発達な国では今でも出産時に命を落とす母親は少なくありません。死には至らなくても出産そのものにまつわるリスクは多少を問わず必ずありますし、その後遺症に悩まされている母親もいらっしゃるわけで。

出血が止まらない。物語としては手術後の経過と自己処置が思わしくなくということなのでしょうが、同時にあの姿は母になるということのリスクと現実を象徴しているようにも思いました。

母になるというのはきれいごとでもおままごとでもなく、場合によっては己の身と引き換えになってしまうこともあるのだという。

それでも凪沙はまったく後悔はしていない様子です。衰弱しながらも豊かな世界に身を置いてあの世へと旅立っていきます。母になるというのは子どもをただ産むことではない、場合によっては己のすべてを犠牲にすることになったとしても、この結末を笑って受け入れられるということなのかもしれない、そう思いました。

一果の母、りんの母、そして凪沙、もしかしたら本当の母になれたのは凪沙ただ一人だったのかもしれないと思いました。


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人はみな、自分のために生きればいいのです。

と同時に、誰か大事な人の養分になり、その人が一歩先へ、また次の一歩先へと進んでいくのを見ることを喜びとする心もまた、存在していると思うのです。

女に限らず、次の世代に引き継ぐ、次の世代を産み育てる、というのは、本来は「自らは養分として果てる」という運命をいずれかの段階で受け入れることなのではないかとも思うのです。

もちろん「誰かの養分にすすんでなること」と「望んでもないのに誰かの養分にされている」のとは全く意味が違います。後者はただの搾取です。

何度も言いますが、誰かの養分として果てる必要はまったくありません。運良くも人の親になれたからとて、です。そこは自由意志です。

と同時に、誰にも養分を与えずに、与えられるだけ与えられて終える人生って、いざ人生が終わるとき、己の中にいったい何が残るんだろうとも思います。

りんの死も凪沙の死も、見た目の残酷さほど本人たちには悲劇ではないように思われたのはこのためです。


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女であることの本質を考えされられた映画でした。



武者修行中です。皆様に面白く読んでいただけるような読み物をめざしてがんばります。